2013/08/29

神通瀧



自分をリセットしたいときに、ここに来る。

なんとなく心がざわざわして、気が乱れているなあ、と感じたら、迷わず出かけていく。するとリセットされて、±0になれる。この0というのは、なにもない状態ではなくて、ブラックホールのように、淀みなく無尽蔵に、いろんなものを取りこめる真空の状態であり、意識の源泉だと感じている。気が元に戻るから、元気になれる。無限の空間を満たしている潜在意識は、きっとここから流れ出てくるのではないだろうか。


『私は恍惚状態で睡眠と覚醒の間をさまよっている。意識はまだあるが、失おうとするちょうど境目におり、霊感に満ちた着想が湧くのはそんなときだ。真の霊感はすべて神から発し、ただ内なる神性の輝きを通してのみ、神はご自身を顕すことができる。この輝きのことを、現代の心理学者は潜在意識と呼んでいる』ブラームス

『我々は霊を定義できないが、身につけることはできる』老子






2013/08/15

月影

黙祷の焼山寺から帰宅後、昨晩焚いた、玄関先の迎え火の蝋燭の缶のなかに、ヒグラシが黒こげになって横たわっているのに気づいた。昨日の暗い夜を彷徨って、炎のなかに、飛びこんでしまったのだと思う。飢えた老人(帝釈天)を助けるために、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだ月の兎を思い出した。昨晩、迎え火の写真を見たときに(ああ、太陽のように見えるなあ)と思っていたので、深く考えさせられた。真夜中の太陽が燃えつきて、真昼の月になったのだ。その月影は、ヒグラシの捨身。今日が終戦記念日ということも、偶然ではないと思う。

 


最近ちょっと不思議なことが続いている。とりたてて話すようなことでもなく、誰の前でも平等に在る自然や、個人的で見過ごしてしまいそうな小さき事象を、大きな目で観察しているだけなのだけど、それが現実に、目に見える形やタイミングで具現化するのを体験し続けていると、信じる気持ちというものの奥深さと、無限性を実感する。




こうして写真を時間軸を逆にして眺めていると、まるでヒグラシが燃えていたかのように思えてきた。ほんとうはそうではないという科学的な検証も、この強い確信を揺るがすほどの腕力はない。私たちは時間とは過去から未来に流れているのだと、当たり前のように思っているけども、肉体を超越した存在なら、まるで鯉が瀧を昇るように、未来から過去にさかのぼることもできる。いまこのように生きていられる奇蹟を思い出させるために、ヒグラシは終戦の日を狙って、炎に飛びこんだのだろう。


2013/08/02

弔い

蟻を観察していて、とても不思議な光景を目にした。

蝉の亡骸のまわりに、蟻がたくさん集まっていた。(ああ、集団で巣に運ぶんだな)と思って見ていたが、いっこうに運ぼうとしない。よく見たら、蝉のまわりに、落ち葉や小さな種が、取り囲むように添えてある。さらに小さな蟻が、懸命に葉と種を運んでくる。まるで蝉の葬儀。蟻が蝉を、弔っているのだ。蟻にとって、蝉の亡骸は貴重な栄養源のはず。なのに巣に運ばずに、周りに葉や種を添える意味がわからず、まるで自分を疑うように観察.していたが、小さな蟻は、確かに葉と種をわざわざ持ってきて、横に置いたのを確認した。それから蝉の亡骸の近くでは、まるで相反するように、生まれたばかりの、なんだかよくわからない小さな幼虫が、蟻の集団に襲われていた。

蟻の魅力は、機能美だと思う。無私であり、迷いのなさ。それでいて、昆虫ならではの不思議な直観が働いている。たとえば長い棒のようなものを運ぶとき、一匹が端っこに噛みついて、運ぼうとするが、重すぎて、動かない。すると、すすっと別の蟻が来て、反対側を持つ。見ていたとは思えない早さで。実際、仲間が困っているのを、目で確認したりはしていないと思う。そういう回路ではなくて、状況によって、体が正確に反応している。虫のみならず、動物、植物、森羅万象、生きとし生けるものすべてが有している、直観的感応力だと思う。もちろん人間にも備わっているものと、確信している。頭よりも先に体が動くような場面は、意識していないだけで、それほど珍しいわけではないのだから。

子どもの頃から蟻を見るのが好きで、大人になっても変わらない。蟻の動きは、世界の感じ方を教えてくれる。蟻は人間(観察者)によって態度を変えたりしない。蟻を踏んでも、蟻は人間を恨まない。蟻は人間という観察者には、気づけないようなシステムのなかに存在して、世界を構築しているから。同じことが、人間にも言える。人間は、自然を愛することはできても、逆らえなし、恨めないし、抗えない。人間が自然に逆らうようなことをしていれば、蟻が人間に気づくのと同じで、生命の秩序が崩れて、自滅の道を辿るのだと思う。そのことは、直感的にわかる。蟻と人間との違いは、そのようなシステムのなかに存在している理由のことを、考えることができること。自分をミクロにしてみたり、マクロにしてみたりして、自然に同期したり、心を運動させることができること。それが人間の大いなる可能性。
 
蟻の営みを、人間(自分)が見て、どう感じるか。僕は蟻による蝉の葬儀を見て、ある私的な記憶が結びつき、そのあと、幼虫を襲う残酷な場面を見て、ちっぽけな自分史と、壮大な生命の世界が交錯した。その接点において、本質の陰影を見たような気がする。言い方を変えると、美しいと思った。