樹齢50年くらいの杉やヒノキを倒している。樹が倒れるときは、敬虔な気持ちになり、自然に手を合わせてしまう。一方で、倒れるときの音や、森の響きが、ものすごく気持ちいい。揺るぎない快感がある。
樹は話すことができない。
だからこちらの心で、感じとるしかない。最後の樹の声は、聞こえるというよりも、透明な風(エネルギー)が、一気に肉体を突き抜けていくという感じだ。森が裂けて、その裂け目から、透明なエネルギーが放出する。記憶だと思う。倒れるそのときに、自分は樹の記憶を全身に浴びている。
薪の確保のために山にはいるのだけど、たぶん理由は後付け。とにかく山にはいりたいから、無理矢理に現実的なことをすり合わせて、呼ばれた自分に理由づけをしているだけだと思っている。もしも薪が確保できていても、きっと違う理由を探しただろう。
スギとヒノキの人工林でも、自分より長い年月を生きているので、語り部としての存在感と、自分の時間軸をねじらせる磁場はある。山は外から見れば整然としていても、何十年も人の手がはいらなければ、無視されていた樹下世界は混沌とする。人を寄せ付けず、破綻して、自由に、暴力的。それなのに、なにもかも包みこむようなおおらかさや優しさがある。お隣の樋口のじいちゃんから、好きにしていいと言うことでお借りしているこの山の樹を、もう何本も倒している。陽あたりを考えて間伐しているつもりなので、罪悪感はないのだけど、いつも樹の声は感じていた。
数日前、樹が倒れる瞬間に『倒してくれて、ありがとう』と言っているような気がした。自分の手で生を閉じた罪と、思ってもみなかった感謝の声がないまぜになって、中和されて居場所を失ったような、不思議な気持ちになった。この樹が植えられたときの、戦後まもないころの日本の植林ブームの時空に、現在の魂が一瞬触れて、樹の時間(記憶)を一気に追体験したのだと思う。そんな気がしただけで、証明することはできないのだけど、現場でなんらかのエネルギーの交流があり、密約されて、自分という存在に憑依して言語化したのだから、それはまさに、語り部の声だと思う。
今日は天気がよくて、オオイヌノフグリが咲いていた。川辺にはネコヤナギが、かわいらしげにふくらんでいた。大日如来。太陽はすごいなと感心した。植物は人間ではなく、天の気に応じている。それでいて、わたしたちに希望や潤い、やすらかさを与えてくれている。そのようなおおらかな無限の回路にむかって、知覚の扉を開いたときに、人間は語り部(話す人)に出逢えるのかもしれない。
《大切なことは、焦らず、起こるべきことが起こるにまかせることだよ》と彼は言った。《もし人間が苛々せずに、静かに生きていたら、瞑想し、考える余裕ができる》そうすれば、人間は運命と出逢うだろう。
(バルガス・リョサ「密林の語り部」より)
《大切なことは、焦らず、起こるべきことが起こるにまかせることだよ》と彼は言った。《もし人間が苛々せずに、静かに生きていたら、瞑想し、考える余裕ができる》そうすれば、人間は運命と出逢うだろう。
(バルガス・リョサ「密林の語り部」より)