2014/09/27

ブナの森


ブナの原生林に。一の森ではなくて、剣山スーパー林道の途中にある。

未舗装のスーパー林道は、数年前、南下ルートの山中でパンクしてひどい目にあったきり、過酷なので敬遠していた。この道ははじめて走った。ちょうど神山と剣山をほぼ直線で結ぶ最短ルート。こんなすごい場所があるとは、いままで知らなかった。ブナの原生林は、きっとこのあたりから、剣山、一の森まで広がっているのだろう。

広葉樹にはどこか宇宙的な魅力がある。とくにセザンヌのような色紋がついたブナは美しい。

針葉樹は地の力を体に感じさせるが、広葉樹は天の力を我が身に解き放つ。直線的な針葉樹の気質とは違って、広葉樹は一本一本の個性の違いが際立っていて、同じ種でも多様性があり、混沌としているが、全体にそこはかとない秩序があり、樹海とはまた、違う魅力がある。


ブナについているセザンヌのような色紋は、そっくりな模様が周辺の石にもついている。このセザンヌの石を見つけたら、近くにブナがあるかもしれないというサインでもある。ブナに惹かれはじめたのは、犬塚勉さんの作品集を見てからだと思う。ブナのシリーズが好きで、樹なのに、石のようにも見えていた。魂と矜持をはっきりと感じる、そのまなざしに憧れる。犬塚勉とセザンヌ。この二人の魂を、石やブナという自然の個性は、永遠という絆で結びつけてくれている。

そして色紋が見えない距離まで下がって俯瞰すると、視界が変わって、高島野十郎の風景が立ちあがる。野十郎の風景は、日本の田舎の至るところに存在する。作品とは、記憶の玉手箱。いつでも、また逢える。

原生林には、人間なんて眼中にないような気高さと、宇宙に繋がっているような自由がある。その森には誰もいないのだけど、まなざしがある。そのまなざしは、魂を結びつける。これからまた、通おうと思う。日本の風景は、ほんとうに逞しくて、多様で、美しい。あらためてそう思う。

ブナの森の絵を描いていると、誰かが背中を押してくれているような気がして、心が強く清らかに、静かになる。いま此処にあるはずの体を、どこかに預けているという不思議と、安らぎに包まれて、夢を見ているような気持ちになれる。


ブナの森は樹海とは違う魅力があって、自由度が高い。自分で樹を倒して薪を作るようになってから、見た目の雰囲気で、なんとなく樹齢がわかるようになってきた。ブナはあまり長寿ではないと思うのだけど、それでも高城山の頂上付近には100年以上と思われる樹がたくさんあった。樹霊に囲まれて、天国に迷いこんだような気持ちになっていた。

山のうえでぼんやり空を見ていたら、とつぜん風がやんで、すっかりなにも聞こえなくなった。鳥も鳴くのをやめて、無音。川の音も届かない。山のてっぺんで、ささいな音も、動いているものもなにもない、静止した大きな視界のなかで、巨大な雲だけが、ゆったりと流れていた。目に映るものすべてのなかで、雲だけが悠々と生きていた。
帰り道の林道で、山の声が聞こえた。幻聴ではなくて、内なる響きを、自分なりに翻訳しただけにすぎないのだけど、それを山の声と言い切っても、べつにいいのだと思う。

『人間はなにもしらない。この世界の、ほんの一部しかわかっていない』

そう言っているように思った。

人はなにかを本気で信じはじめると、数珠を繋ぐように、それに見合った世界観を生成する。そうして意識の鏡のように、現実はたえず変化していく。人は世界を、見たいように見ている。だけど、見たいようにも見れないような、まるで臨死体験のような自己消滅の場面において、全体的に働いている宇宙の法則のようなものを獲得している。




2014/09/15

まなざし


犬と散歩していたら、頭上でミンミン蝉が蜘蛛の巣にひっかかった。

からまった羽根を広げて、絶叫している。見ていられないので、長い枝を探して、蜘蛛の糸を切ってあげたら、うまく飛べずに、そのまま足元に落ちて、犬が食べてしまった。なんとも言えない気持ちになった。

もしも未来を知っている「なにものか」が、こっそり事の次第を観察していたとしたら『ああ、あいつは正義感で蝉を助けようとしているが、ほんとうは蝉の寿命を縮めようとしている愚かものだ』と思っただろう。

だけど「なにものか」は、いつも見ているだけで、けして自分に干渉しない。過ぎ去ったあとで、気配だけを残す。蝉から見れば、蜘蛛の巣も、人間も、犬も、ひっくるめてぜんぶ苦難だ。その連鎖に自我は気づけない。その苦難を、断ち切ろうとしたのだから。

あのとき蝉が、最後に絶叫しなければ、自分は蜘蛛の糸を切ったりはしなかっただろう。悲鳴のように聞こえた。だから犬のことを忘れて、蜘蛛の糸を切った。蝉は犬から逃げきる可能性はあった。だから後悔はない。ただし、ここに残る「なんとも言えない気持ち」とは、向かい合う責任があると思った。

なんとも言えない気持ちとは「まなざし」によって生じている。

ここで言う「まなざし」は、自分からではなく、「なにものか」から受ける視線のことを指している。たとえば花を見つめていると、花のほうから見つめられているような気がしてくる。そのとき「なにものか」は、すでに花らしさのなかに宿っている。上の方からの異次元の光が、花に命を与えているかのように思える。

なんとも言えないこの気持ちのことを、本居宣長はもののあはれ(物の哀れ)と呼んだ。「もののあはれをしる」心そのものに、宣長は美を見出した。見つめるものと見つめられるもの、内と外が、ひとつになったときに、「まなざし」は出現する。ほんとはひとつに重なっていた。だから、物の哀れ。もともとひとつだったことを知り、そしてまた、離れなければならない運命に気づくのは、哀しいことだから。

「なにものか」は未来を知っている。過去と未来が、大いなる記憶のなかで、二つの世界を合わせるように、ゆれ動きながら「私」とすり合って、ピントが合ったときに、いま、此処にあるリアリティーが「まなざし」を通して、出現する。

私たちの体を形づくっている60兆の細胞は、毎日1兆個の細胞が入れ替わるという。血液は100~120日間、骨は1年半~3年ですべて新しく入れ替わるらしい。細胞学的には、数年前の私と今の私の体は、別人。自分とは、毎日すこしずつ入れ替わっている。それでいてなお「私」を「私らしさ」として繋ぎ止めている原因が、外ではなく、自分の内にある。

ほんとうは過去や未来は幻想で、毎日生まれ変わる体と、変わり続ける現在だけがあるとして、そのことを頭では理解できても、人に意識があり、意識が社会に関わっているかぎり、そのようにありのままには振る舞えない。狂人という烙印と本当の孤独に耐えうるような、超人的な思想と精神力がなければ、きっと虚無(ニヒリズム)に迷うことだろう。だからこそ人は、歴史の流れや社会全体の気配を通して、学び、悩み、勇気を出して、行動して、意識を揺れ動かしながら、自分を越えるものを敬い、こだわりを消してくれる世界に、憧れを抱く。

「まなざし」が運命を愛してくれていることを信じて。新しい存在を肯定してくれる窓が、大きく開かれていることを信じて。

内的世界のイメージと外的現象のエネルギーが拮抗すると、そこに新しいイマージュが生まれる。そのイマージュは自我を押し出すので、自分で在り続けようとするこだわりが消える。それは生と死の瞬きのような、永遠の一瞬だと思う。かつてシモーヌヴェイユが真空と呼んでいたのは、その領域のことだと思う。

魂があるとしたら、真空を通るはず。魂が真空を横切ったその瞬間に、人の感覚はもう過ぎ去ってしまった遠いまなざしを感じるのだろう。



2014/09/06

信仰


「根」が描きたくなって、宇佐八幡神社の大楠と、焼山寺の大杉を見に行った。どちらも樹齢500年を越えるもので、宇佐八幡神社の大楠は、大きくなりすぎて参道を破壊している。鎮守の森からは、何世代にも渡って大樹が育ち続けるような場所に、神域を定めようとする人間の永劫回帰への本能が漂っている。

焼山寺で二年前に撮影した大樹の根の写真を持っていたので、持参して見比べてみた。もちろん根の形状は寸分変わらないのだけど、そのままの状態の小石まであったのには、ときめいた。度重なる大雨や嵐に耐えて、そっと根に寄り添っている。偶然が重なって移動する大きな石もあれば、なにがあろうとも、そこに留まろうとする小さな石もある。

むき出しになった樹の根には、死後の世界を感じさせる力がある。ここからは見えない地下世界へと、力強く伸びていく躍動がある。深く静かに根を伸ばすからこそ、人間の寿命をゆうに越えて、守り神として生き続ける。私たちにすこしだけ姿を見せてくれている「根」は、天と地、生と死の境に潜む、荒ぶる神の権現。人間の目は植物の動きを目で追えないほど不自由だけど、その一瞬は私の永遠なる感覚を呼び覚まし、霊性を回復させてくれている。

大きくなりすぎて参道を破壊している、宇佐八幡神社の大楠の樹の根を見つめていると、敬虔な気持ちになる。

鎮守の森は、社(やしろ)以前に、そもそもそこに在る。ほんとうは、神社のほうが大楠に干渉している。だけど人間の目には、樹が大きくなりすぎたかのように見えてしまう。

信仰や表現それ以前に、自然がある。人間だけが自然からはみだして、社会や歴史や宗教や芸術を作っても、草は何度でも生え続けるし、樹は根をはって、大きくなる。目の前のその事実にはかなわないし、手に負えないところがある。

敬うとは、自分から見えているもの以前の、見えていない自然への原始感覚を開く、鍵のような働きだろうと思う。なにも求めていないのに、自分の内側から、外側に向かって、すっと扉が開く。その扉の向こうに、吸いこまれていく純白さが、信仰という色なのだと思う。