10/23、奄美の海の絵に花の色香が定着しているのに気づいた。
10/29、2枚目の海にも花の色が着香。
三本の薔薇はまるで演出されたように、綺麗に並べてあった。なにか弔いの儀式であろうと推測することはできる。しかしその理由とは別に、わたし(我)に向かって薔薇の花(汝)が届けられた。海という偉大な母から。
シンクロニシティやセレンディピティは、偶然起こるのではなく、霊的な世界と焦点が合ったときに向こうから来る必然。新しい世界へ移動しているときには、外の世界に現れる現象に伴って、予感ともいえる共感覚が現れる。
三本の薔薇を砂浜に置いた人のことを考えていた。ほんとうのことはわからないけど、もし3匹の動物への弔いだったとして、逆の立場だったら、この薔薇にそんな印象を受ける人がいるとは、想像もできないだろう。薔薇に宿る印象はまるで対極、弔と慶。波のように送り迎えになっているのだから。
その想いに挟まれた薔薇は、物質としてはもう、波に飲まれて消えてしまっただろう。しかし花は、記憶の波打ち際で、ただ沈黙を保ってそこにいる。海と花は、もはや海と花ですらなく、感傷すら超えた名前のない世界で、精神の束に包まれて持続している。
そのイマージュを言葉にして伝えようとすると、いつも本質がすこしずつ、掌に乗せた砂のように、指の隙間から溢れ落ちてしまう。観測する前は波なのに、観測すると粒になる。でもその質感を確かめたくて、ずっと描いている気がする。いままでも、これからも。