「芸術のことはよくわからないけど‥」と前置きされることがよくあるんだけど、神道にコミットしていたり、動物や植物、つまり自然界や霊界に太いパイプ(回路)を持っている人は、芸術のことも潜在的によくわかっている。神さまと話せる人は、芸術の話もできる。これは根っこが同じだから。
神さまを信じていないと絵は描けないと言ったセザンヌに対して、メルロ=ポンティは彼の絵はなにか人間ではないような存在(視座)から描かれているようだと評論している。このへんの奥行きが芸術の本質なのだけど、そこまで踏み込めずに、表面的なことだけに惑わされる人は多い。
たとえば虫の目から見た世界をネットで検索すると、こういう花の画像が出る。
ほとんどの人は左の花にまぁ綺麗!と反応するのではないかと思う。でも左は人間の視点から花を捉えて美に変換、つまり脚色された花で、たぶん虫はこんなふうに花を見てない。どちらかというと、右の花の静寂の方が本質に近い。
ネットニュースなんかで、たまに本物と区別がつかないように空き缶やお菓子の袋なんかを描く人がいて話題になったりするけど、そこまで技術がある人が芸術家として大成しないのは、他者に見られる世界に閉じこめられていて、本質にコミットできていないから。
プロの添削で素人の絵がどう変化するかという動画をたまたま見てしまったけど、添削される前の絵の方が、下手でも一生懸命さが伝わってきて、いい絵だった。なんでこんな比較をするのだろうと見ててつらくなる。これがプロの絵描きなら、自分はプロにはなりたくない。
人間の視点から描かれている絵とは、わざとヘタに描くという意味も含めて、技術が高くて上手な絵。でもそれは予定調和の上の方にいるというだけの話で、突き抜けないかぎり、本質的な創造性とは関係がない。絵が上手いピカソが絵が下手なセザンヌやルソーに嫉妬していたのはこの本質で、ここを理解している人がものすごく少ないのは、人間ではない存在から描かれた(ように見える)ものが、人知を超えている(ように見える)から。
人間はなにも知らない。ブナの森からそう言われたことがある。だからこそ求め続けることができるのだろう。芸術とは、その求めに答えようとする魂の救済であり、光。自分の人生を、その光と共に生きている人こそ、芸術のことを表面ではなく、本質的に理解している。