新緑が美しい雨の日の午後、散歩中にカモシカに遭遇した。
うちの周りは鹿はたくさんいるけど、カモシカは滅多にいない。地元の新聞にも載るくらいで、10年以上住んでいて、見たのは一度だけ。たしか五、六年前くらいだったと思う。
時期や季節は忘れたが、そのときのことはよく覚えていて、川から上がってきて、なぜか伝えたいことでもあるかのように、家の玄関の前で立ち止まっていたのが印象的だった。それ以来なので、今回が二度目。
新緑がとても綺麗だったので、普段は持ち歩かないカメラを持参していた。
不思議なのは、憑かれたように山羊の絵を描いていた、そのタイミングだった。
鹿の絵を描いていると、現実にも鹿が出てくる。こういうことはよくあるが、まあ実際に出会う動物からインスパイアされているのだから、偶然と片付けておかしくはない。でも今回はカモシカ。
なにかグッとくるものがあって、よく見ると顔が描いていた絵に似てるので、もしかしたらと調べたら、カモシカはシカの名が入っているが鹿ではなく、漢字にすると羚羊、やはり牛や山羊と同じウシ科に属するヤギ亜科だった。
山羊ってキリスト教では悪魔的に扱われるけど、実は真逆で、過酷な環境を生き抜く、孤高で強靭な魂を持っている神聖な動物。あの独特な山羊の眼が怖い人は、自分の中の悪魔を見られておびえているから。我が道を行く人にとっては、山羊の瞳は気高く美しい。
人間の都合で悪魔にされたり、生贄にされたり。不憫でならない。描くことを通して、『俺が真実を伝えてやるからな』という気持ちで「山羊の瞳」という二枚の絵を描いたばかりだった。
「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える」
とメルロ=ポンティは「眼と精神」に書いている。何度でも引用したくなるこの言葉は、いつもすっと腑に落ちる。証明することは難しいけれど、たしかに絵と現実は霊的な通路で交流している。
ただし、いい絵を描きたい(孤独を越えたい)のか、それとも共感してもらいたい(孤独を埋めたい)だけなのかで、交流の在り方はずいぶんと変わってくるのだろうと思う。前者がリアルなら後者はバーチャル。
ほんとうのメタバース(高次の宇宙)とは、人の手でプログラムされたオンライン上ではなく、雨の新緑で誘い出すような、創造の神によって現実に重ね合わせられた我即宇宙。
呼吸をするように眼で聴き、手で応じていると、やがて宇宙に漂っていた「存在」は現れる。ただ綺麗なだけの絵にそれはない。存在はいつも沈んでいた自分を世界に浮かび上げてくれる。もはや描いているのか、描かされているのか本人にもわからない。
ただひとつわかること、私は絵の中に生きている。