『神鹿が精霊の泉でなにかを見ている』
そのテーマだけ彼方(あちら)から送られてきて、まだビジョンは此方(こちら)には届いていない。そういう状態が『降りてくるのを待っている』という段階。シモーヌ・ヴェイユの「見つめることと待つこと、それが美しいものにふさわしい態度である」という言葉は、このこと。
ただ待つことだけでは取りこぼすので、こちらからもいつも描いて、いつでも受け取る準備をして見つめていなければならない。この向こうから来るのを待ちながら、こちらからも受け取る準備を整えて、ポテンシャルを静かに高めている状態を一言でいうなら、祈り。その祈りの対象を神と呼ぶ。
画家でもないヴェイユがこのことをわかっていたのは、それが全てのことに当てはまる真実だから。天才とは、この待ち時間が短い人のこと。しかし神の啓示はよいことばかりではなく、雷のような破壊的な側面もある。「絵を描く事は、自分の狂気への避雷針だ」とゴッホが語るように、神の待ち時間が短くなると、その人生も破綻しやすい。しかし雷を受けた大樹が龍の宿り木になるように、その作品は多くの人の魂の宿り木となる。
ポテンシャルとはまだはっきりとは現れていない可能性や潜在力のこと。ぼんやりとして、言葉にすると壊れそうになるが、それが漲ってくると、心身ともに元気になって、世界がキラキラと光輝いて見える。このポテンシャルは、自然の中に精霊の力として潜んでいる。だから古来から人々は鎮守の森に神の社を設定してきたし、花や草木の姿形にも、はっきりとそれは現れている。
彼方からの手紙を受け取ったものは、それに答えずにはいられなくなる。ポテンシャル(神)が充満するのを待ちながら、毎日のように祈り続けている。
彼らの時間は過去から未来ではなく、未来から今に向かって流れている。誰も気にしないような些細なことに苦しんだり、誰も見ていないようなことに喜びを見出していたり、頼まれもしないのにモノづくりに没頭する。他人から見れば無意味で滑稽かもしれない。でもそういう人生は、美しいと思う。