その日は朝から一人で桜を見に行った。満開だったが、ときおり吹くつめたい風に桜の花びらが散りはじめていた。
一枚だけ蜘蛛の糸に引っかかって空中に浮いていた花びらが妙に気になった。その花びらだけは重力に逆らっていて、けして落ちない。まるでそこだけ時間が止まったように、宙に浮かんだ異次元のように見えた。
昼前には帰宅、空は白目がちで寝ていることがよくあるので、最近はいつも息をしているかどうか確認していた。
その日は横に倒れているのではなく、犬らしく丸くなっていて、目もはっきりと開いて遠い目をしていた。
水は飲んでくれなかったが、呼吸はしているし顔が明るい。(今日は調子が良い日だな)と安心して洗濯場にこもって植物の植え替え作業をしていた。
2時間後ぐらいだったと思う、空のお腹が動いていなかったのに気づいた。生き生きと目を見開いていて、今にも動きそうで、まるでその空間だけ時間が止まったように思えた。すぐには信じられなかった。生きているように死んでいた。
急に空が暗くなって、湿った風が吹いてきたと思ったら、雨が降りはじめた。その雨は夜中まで続いた。
…
空は去年の夏に衰弱して、かなり危なくて覚悟していたが奇跡的に復活した。それからはオムツが欠かせなくなり、足腰も急に弱った。顔が変わらないし保護犬なので正確な年はわからないけど、寿命を超えて生きてくれているような気がしていた。
散歩ができるのは今日が最後かもしれない、そういう愛おしい日々を重ねて厳しい冬を越えた。
3月中頃から身体が思うように動かなくてもどかしそうにしていた。食事も散歩もままならないんだけど、それでも矜持があって心配かけるのが嫌なのか、自力で立ち上がろうとする。犬はこういうところが美しいと思う。
4月に入ってから、自力で歩けないので歩行器を作った。寄せ集めのブリコラージュだけど、2、3回は頑張って使ってくれた。この頃には食事や水も無理やり流しこんでいた。今思うと、相当無理をさせていたんだと思う。でも寝たきりより、少しでも筋肉を動かしたり、外に出て気分転換をさせたかった。外に出ると虚ろだった目が生気を帯びることがあったから。
この頃には夜鳴きがはじまっていた。どこか痛いとか苦しいというよりも、抑えきれずに鳴り響く魂の叫びのように、ただ悲しそうで、せつなかった。まるで狼の遠吠えのようだなと思った。そして疲れ切っているのではないだろうかと感じた。
もう充分に頑張ってくれたから楽になってほしい、でも一日でも長く生きてほしいという、相反する感情に胸を掴まれていた。こういうことは看取ったことがある人はよくわかるんじゃないかと思う。それはもう人と動物という関係ではなく、純粋な生命の交流であり、言葉を離れた世界での魂との対話、それは芸術の領域にほど近い。
空が亡くなった夜に平気な顔で絵を描いてる自分が怖かった。でも空は死を待っているような生き方ではなく、死を恐れずに前を向いて生命を燃やし尽くした。そうでなければ、しばらく気がつかないような生き生きとした元気な顔をしない。彼は最後の力を振り絞って、時間を止めた。