2011/04/30

野良犬


よく行く海岸には、二匹の野良犬がいる。




手前がオスで昔からいた野良、奧にいるのが後から来たメスの野良。

二匹はいつも一緒にいる。とても仲がいい。どちらも野良犬とは思えない気品のある、高貴な顔立ちをしている。顔や体つきはメスの方が強そうなのだが、絶対的にオスの方が強い立場にあって、激しく噛み合うようなじゃれ合いをしても、最期は必ずオスがメスの首もとを噛んだ優位な状態で終結する。メスはいつもオスの後からついていくし、エサを与えてもオスが見ているとメスは食べようとしない。一匹になると、よく食べる。つねにオスに対して気を遣っているのだ。肝が据わっているのもオスの方で、人が来ても表情ひとつ変えず、まったく物怖じしない。一方メスの方はとても慎重で臆病。オスと自分が仲がよいのを何度も何度も確認して、最近やっと触れられる程度に慣れてくれた。見た目が逆なので、観察していると、まるで人間模様を見ているようで、とてもおもしろい。

この二匹は、人に媚びない。来るもの拒まず、去るもの追わず。人も海もただの景色なのだ。ただ其処にいる。とても自由で、気高く、美しい。潮風や砂浜がほんとうによく似合う。おそらく捨て犬だろうと思う。それでも人を恨まず、媚びを売らず、凛々と、逞しく生きている。見習うところが、たくさんある。此処に来れば二人に逢える。それだけで、海に行ってしまう。







2011/04/24

雨と休日


 雨の休日、ひさしぶりに森に入った。雨と森はほんとうに仲がいい。霞がかった森は、ごく特別な瑠璃色の演出で出迎えてくれた。一応カメラを構えたが、畏敬の念が沸いてきて、シャッターを押せなかった。こんなとき、簡単に撮るのを諦めてしまう。捕らえるのは絶対無理だと、わかってしまう。誰かに伝えようという前提が発生したとき、景色が壊れてしまう。構えるのをやめると、景色が元通りになる。ただ切り取るという意識でしか撮り方を知らないから、こうなるのだと思う。絵のモチーフとしての取材撮影という前提なら、怖いものなしの野蛮さが意識を支配してくれるのだけど。描けるのはずっと先だとわかっているから、もうこの森に入るときは、カメラを持ってくるのをやめよう。いつもの場所に坐り、コーヒーを飲みながら、そう思った。気が済むまで至福を味わってから、森を出た。

 それから河原に下りてみた。雲はまだ暗かったが、雨はやんでいた。岩と岩に挟まれて窪んだ水場に、小魚でもいないかと物色していたら、驚くべき数のオタマジャクシがいるのに気づいた。遠目には岩にへばりついた藻に見えていた黒い揺らぎの影が、すべてオタマジャクシだった。目を凝らせば凝らすほどその数が天文学的な色を帯びてくる。しかもわりと大きな水場のあらゆる場所に、黒い揺らぎがあった。合わせて万単位の数かもしれない。しゃがみこみ、圧倒的な数を見つめて放心しているうちに本格的に陽が陰りはじめていた。この一匹一匹が全部蛙になったとしたらと考えると、ゾッとした。はたして無事に蛙になれるオタマジャクシは、このうちの何%だろうか。鳴き声で知るその日が恐ろしくはあるけど、遠目には地味で目立たない、暗い影の揺らぎの正体が、ギラギラとした生命力そのものだったという事実は、やはり嬉しい。









2011/04/17

草枕

「草枕」という小説を読んでいる。

初めて読んだのは二十歳くらいの頃で、そのときは音楽的な小説だなあとか、先駆的な小説だなあという印象しか残っていなかった。それから時が経ち、グレン・グールドとの関係や、主人公が画工であることや、喧騒を避けて旅に出るという内容が、今の自分の興味と重なるところがあって、再読するうちに、あのころとは違う質感が小さな紙の束に宿ってしまい、手放せなくなってしまった。著者曰く、義理人情の世界から超越した、「非人情」な小説であり、「閑文学」である。

「山路を登りながら、かう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて画が出来る」

最近、自分はアトリエを都会から山奥に移した。するといくつかの反作用が起こった。人と距離を置いたつもりが、逆に縮まった。遠くにいるはずの人を、より身近に感じるようになり、近くにいる人もまた、より密接に感じるようになった。はじめて出逢った土地の人たちが、まるで身内のように近しい存在に思えてしかたがない。自然はどうか。目の前に森があり、川があり、鶯がいて、星がある。欲したものが、全部ある。だがその本質に近付いたつもりが、ますます遠い存在になってしまった。自然とは、まさに「非人情」の世界そのものであり、「気まぐれ」であるという実感だけを、掴んでしまった。俗界を離れた仙人のような達観など、夢のまた夢である。「草枕」の語り部もまた、那美さんという女性を鏡にして、逃れようとしているものに、近づいてしまっているような印象を受ける。金太郎飴のように切り取った哲学の中で、猫のように繊細に、近付いては離れてを繰り返すことによって、逃れられないものが、足跡として際だってしまっている。

「こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く 。着想を紙に落さぬとも鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の 絢爛は自から心眼に映る」

今、見えないストレスを感じている人もいると思う。静かな生活をしている木陰のような資質の人が、ほんとうは一番敏感なのかもしれない。なにかアクションを起こせる人は、幸せなのかもしれない。しかしなにもしなくても、なにもできなくとも、草を枕に空の青さを知るような、しとやかな閑時間にこそ、なにかを本当に変える広がりがあるのかもしれないという可能性は、押し潰されてはいけないような気がする。

 





2011/04/13

嫉妬



今日は植物を枯らさないタイプの人と、いつもよく行く森に入った。森を紹介するような気持ちで進んでいると、野生の鹿が現れた。いつもは姿を見せないくせに、と嫉妬した。


2011/04/12

暗示



なにかを暗示する風景というものが、たしかにある。


そういう風景に出会すと、自分が極楽と地獄の境目に立っているような気がしてくる。


 二本の蝋燭があって、偶然吹いた一陣の風によって、一方は消えてしまい、もう一方はゆらりゆらりと消えずに、逆にその風に乗って炎を増し、さらに強く燃え続けてしまうような。まさに生命とは、風前の灯火であり、そこにはいささかの矛盾もなく、もはや一陣の風がいたずらに隣の火を消したとて、それはもう、風を抱いて生きるしかない。という気持ちになる。そんな風景が、たしかにある。



2011/04/07

空即是色


震災以後、なんだかよくわからない衝動にまかせて作りはじめた苔玉。今日、44個目を作った。毎日霧吹きで水をあげていたのだけど、一週間以上前に作ったものはほぼ全滅に近い状態で、枯れはじめている。あわてて4月1日から撮影しはじめたのだけど、初期に作ったものはすでにこのような状態だった。しかしほんとうに気を遣って、マメに手入れしていれば、こんなふうには絶対にならないだろう。ようするに自分は、創ることそのものが即ち目的。故に植物を枯らしてしまうタイプの人間なのだ。できてしまえば、それでおしまい。気持ちよくなってしまえば、それで終わり。日常のあれこれに気を取られて、枯らしてしまう。それでも作ってしまう。こだわってしまう。枯らすとわかっていて作ってしてしまうからには、このことについて考え、語る必要がある、と思った。


【空即是色】 目に見えないエネルギー(空)を、目に見えて、触れられるものに(色)に、変えざるを得ない想いというものの正体は、ほんとうに「なんだかよくわからない」。それを「創造」というのなら、創造とは常に破壊的で、とらえどころがなくて、出口がいくつもあり、目隠しをした暴れ馬みたいだ。僕は森で拾ったごくわずかな質量の目に見える物質(色)を、その「なんだかよくわからない」力を加えて、膨大なエネルギーの塊(空)に変換しようと、試みているのかもしれない。


僕が目に見えるようにせずにはいられなかった、震災以後に充満して、柔らかく広がり続けている、その目に見えないエネルギーとは、目に見えるはずのものが、目に見えない状態になっていると
いう矛盾を抱えた放射性物質のようなものとは対極にある、自立した、植物を枯らさないタイプに漂う、気高いエネルギーだと思う。できあがったものを見て、自分が作ったような気がまるでしないので、そう思うのだ。はっきりとその正体はわからないままなのだけれど。そう思う。