吉村昭の「漂流」というドキュメンタリー長編を読んでいる。江戸時代に黒潮に乗って絶海の火山島、鳥島に流されてしまった男たちの実話を元にした一枚の壮大な写実画のような物語だ。火山島である鳥島に餓死寸前で辿り着いた男たちは、あほう鳥という無尽蔵な食料で息を吹き返すも、やがて長平という男を残して次々と倒れてしまう。食料は豊富にある。しかし男たちは弱っていく。栄養の偏りである。長平は貝を求めて、毎日海にでかけていく。しかし貝だけでは男たちの栄養の偏りを修正できない。だけど同じものを食べている長平は衰弱しない。長平は気づく。男たちの衰弱は「運動不足」が原因だと。
食料の不安がなくても、毎日一定の運動を自らに課さなければ、人間は死んでしまう。まず足腰が立たなくなり、肉体の衰弱に伴って、精神が淀み、死ぬ。運動によって得られるもの、それは「負荷(ストレス)」だと思う。肉体は反応の器、みずから代謝しているとはいえ、甘やかすとどんどん弱くなる。それは精神にも連動する致命的な欠点を大きく孕んでいるとも言える。だから負荷は、ガス抜き、カンフル剤として必要なのだろう。
現実に当てはめてみるとしっくりくる。家でダラダラしている人に限って、足腰が弱く、覇気がない。文筆家や小説家もまた、肉体労働などしたことがないような(印象を受ける)人の言葉には、迫力がない。心に汗をかいていない。波乗りがうまいだけで、海の中に潜ったことがないような心象を受ける。そういう人にかぎって議論好きだったりするからやっかいだ。その逆に動き回っている人には覇気が伝わってくる。足腰のことはわからないけど、言葉には説得力がある。現場にしかない生き血を吸い取って、血肉にしているからだと思う。別に外に出て運動をすればいいということではなく、喉仏を掻きむしって爪の中に血が滲みこむような、発しないといけない、やむにやまれぬ事情が介在しているかどうかが説得力に呼応しているんだと思う。やむにやまれぬ事情は、広義的な意味で「激しい運動」を促している。車椅子のホーキンス博士が、やむにやまれぬ事情をバネにして、他の科学者の追随を許さない卓越した運動能力を獲得したように。
ここで重要なのは「自らに課す」という意志だと思う。物語を読んでいると、生きながらえようとする強い意志がないものから順番に、死んでいる。たった一人生き延びてしまった長平は、自死を踏みとどまり、果てしのない暗く長い月日を経て、新たに難破して、地獄に辿り着いてしまった人たちに、こう言う。
「私は読み書きもできぬ一介の水夫です。高僧のようにさとるなどということはとてもできぬ男です。しかし、なにか一つのさとりをもたなければ、この島で生きていくということはできないと思います」
「そのさとりとは?」
水も食料もある場所にいても、私たちは一つのさとりのようなものを探している。それは肉体ではなく、魂が死のうとしている危機感を、われわれ(人間)が、われわれ(人間)の中に感じとっているからではないだろうか。いったいなにを頼り(一つのさとり)にして、私たちは生きていこうとしているのだろうか。高僧の答えではなく、読み書きもできぬ、長平のような人の答えの中にこそ、スウッと染みこんでくるような大きな手がかりがあるのかもしれない。先人たちの壮絶な記録と、そのものたちに憑依された吉村昭という作家の文章は、運動不足に陥って、衰弱し、思考停止になり、自分で自分の首を絞めるような、今まさに魂が絶えようとしている人たちにとって、果てしない、大きな負荷となって、激しい運動を促してくれている。逃げるな、受け入れろ、生きろと、蘇生してくれている。
※ 私たち=われわれ=自分=人間
2011/9/25 追記
ネタばらしのような気がして書かなかったのだけど、「現在」の人たち(われわれ)にとって、この長平の言葉がとても大事(おおごと)の予感を感じてしまったので、少し時間を置いた形になったが、書くことにした。この事実を基にした小説「漂流」のクオリティが、重要な台詞を晒すことになっても、少しも損なわれることはないとも確信しているので。
あほう鳥しかいない岩だらけの島に難破して、仲間を失い、たった一人、自死を踏みとどまり、三年も生き抜いた長平が、新たに地獄に辿り着いてしまった舟乗りたちに語った言葉の続きは、以下である。
★
「そのさとりとは?」
吉蔵という水主が、長平の顔をうかがった。
「さとりとは・・・、口に出すこともおそろしいことだが、この島で一生を暮らそうと思うことです。しかし、私には、まだそのようなさとりの境地に達することができません。どうしても故郷へ帰りたいと強く願っています。そこで、せめて帰郷は神仏の意におまかせしよう、それまではあせることもなく、泣くこともやめて、達者に暮らそうと思うようになりました。このように考えてから、気持ちがひどく楽になりました」
長平は、しんみりした口調で言った。
★
漂着してから計十二年、恐るべき努力と忍耐によって、長平たちは生還する。
食料の不安がなくても、毎日一定の運動を自らに課さなければ、人間は死んでしまう。まず足腰が立たなくなり、肉体の衰弱に伴って、精神が淀み、死ぬ。運動によって得られるもの、それは「負荷(ストレス)」だと思う。肉体は反応の器、みずから代謝しているとはいえ、甘やかすとどんどん弱くなる。それは精神にも連動する致命的な欠点を大きく孕んでいるとも言える。だから負荷は、ガス抜き、カンフル剤として必要なのだろう。
現実に当てはめてみるとしっくりくる。家でダラダラしている人に限って、足腰が弱く、覇気がない。文筆家や小説家もまた、肉体労働などしたことがないような(印象を受ける)人の言葉には、迫力がない。心に汗をかいていない。波乗りがうまいだけで、海の中に潜ったことがないような心象を受ける。そういう人にかぎって議論好きだったりするからやっかいだ。その逆に動き回っている人には覇気が伝わってくる。足腰のことはわからないけど、言葉には説得力がある。現場にしかない生き血を吸い取って、血肉にしているからだと思う。別に外に出て運動をすればいいということではなく、喉仏を掻きむしって爪の中に血が滲みこむような、発しないといけない、やむにやまれぬ事情が介在しているかどうかが説得力に呼応しているんだと思う。やむにやまれぬ事情は、広義的な意味で「激しい運動」を促している。車椅子のホーキンス博士が、やむにやまれぬ事情をバネにして、他の科学者の追随を許さない卓越した運動能力を獲得したように。
ここで重要なのは「自らに課す」という意志だと思う。物語を読んでいると、生きながらえようとする強い意志がないものから順番に、死んでいる。たった一人生き延びてしまった長平は、自死を踏みとどまり、果てしのない暗く長い月日を経て、新たに難破して、地獄に辿り着いてしまった人たちに、こう言う。
「私は読み書きもできぬ一介の水夫です。高僧のようにさとるなどということはとてもできぬ男です。しかし、なにか一つのさとりをもたなければ、この島で生きていくということはできないと思います」
「そのさとりとは?」
水も食料もある場所にいても、私たちは一つのさとりのようなものを探している。それは肉体ではなく、魂が死のうとしている危機感を、われわれ(人間)が、われわれ(人間)の中に感じとっているからではないだろうか。いったいなにを頼り(一つのさとり)にして、私たちは生きていこうとしているのだろうか。高僧の答えではなく、読み書きもできぬ、長平のような人の答えの中にこそ、スウッと染みこんでくるような大きな手がかりがあるのかもしれない。先人たちの壮絶な記録と、そのものたちに憑依された吉村昭という作家の文章は、運動不足に陥って、衰弱し、思考停止になり、自分で自分の首を絞めるような、今まさに魂が絶えようとしている人たちにとって、果てしない、大きな負荷となって、激しい運動を促してくれている。逃げるな、受け入れろ、生きろと、蘇生してくれている。
※ 私たち=われわれ=自分=人間
2011/9/25 追記
ネタばらしのような気がして書かなかったのだけど、「現在」の人たち(われわれ)にとって、この長平の言葉がとても大事(おおごと)の予感を感じてしまったので、少し時間を置いた形になったが、書くことにした。この事実を基にした小説「漂流」のクオリティが、重要な台詞を晒すことになっても、少しも損なわれることはないとも確信しているので。
あほう鳥しかいない岩だらけの島に難破して、仲間を失い、たった一人、自死を踏みとどまり、三年も生き抜いた長平が、新たに地獄に辿り着いてしまった舟乗りたちに語った言葉の続きは、以下である。
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「そのさとりとは?」
吉蔵という水主が、長平の顔をうかがった。
「さとりとは・・・、口に出すこともおそろしいことだが、この島で一生を暮らそうと思うことです。しかし、私には、まだそのようなさとりの境地に達することができません。どうしても故郷へ帰りたいと強く願っています。そこで、せめて帰郷は神仏の意におまかせしよう、それまではあせることもなく、泣くこともやめて、達者に暮らそうと思うようになりました。このように考えてから、気持ちがひどく楽になりました」
長平は、しんみりした口調で言った。
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漂着してから計十二年、恐るべき努力と忍耐によって、長平たちは生還する。
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