今年の3月にアトリエを神山に移したとき、冬に向かっての大きな楽しみが二つあった。ひとつはこの近くの瀧で冬の間だけ見られるという氷爆。もうひとつは、この薪ストーブだった。すでにお風呂用に薪ボイラーがあるけど、家の外なのであまりゆっくりと落ち着いて炎は見られない。その点薪ストーブは部屋の中でくつろいで炎を見ることができる。そして部屋がとてつもなく暖まる。さらにお湯も沸かせるし、芋も焼けるし鍋もできる。薪を取りに森に入るのも楽しい。一石五鳥、六鳥である。こんなに鳥にぶつかる大きな石は奇跡というほかない。炎とは、人間が人間になるために唯一(私たちが認識できない領域から)許可された恩寵のような気がする。許されていない力を振り回した放漫と無責任が、心の豊かさを蝕み、これから長く人間を苦しめようとしている今だからこそ、そのことに気づくことができたのかもしれない。
昔から炎を見るのが好きだった。小学生のころ、放課後に用務員さんがゴミを燃やす背中を見て、とてもうらやましかった。近づくと怒られたので、大人ってずるいと思った。だからがんばって大人になった。
炎には形がない。瞬きひとつしたその後には、まるで違う姿をして、実体が掴めないくせに、強烈な存在感と気迫があり、それは生命力そのもののようであり、明王の本性を見ているような畏怖に包まれる。そして熱い。近づくのもままならず、触れると激烈な苦痛とともに傷を負い、命を奪うこともある危険がある。しかし、だからこそ禁じられた遊びを嗜んでいるような甘い蜜、トキメキがある。さらに物質がエネルギーに転化する様としては、色即是空を目の当たりにしているような趣があり、一瞬にして瞑想状態にもなれる。
炎は怒りや煩悩の象徴として例えられることも多いけど、その猛々しさの奧には、永遠と見まがうような深い安らぎの境地、涅槃(ニルヴァーナ)が潜んでいるように思える。真実(仏性)は煩悩の炎が消えたときに現れる。などどカテゴライズされた宗教は悟ったように言うけども、僕には炎そのものが仏性に見えたり、また、同化したり、鏡を見ているような気持ちにもなれる。涅槃とは、煩悩の炎が消えた清らかな場所ではなく、混沌としていて、形もなく、常に変化し続けて、熱く、近寄れないような場所にあるのだと思う。それはすでに、生きていることと死んでいることの区別すら無化してしまうような領域のことを指し、煩悩そのものを受け入れて見つめ直すという意味においては、炎とは、清らかな静寂の裏返し、反動、反逆の化身なのだと思う。そうでなければ、これほど猛々しい炎の躍動に、心が深い安らぎと静寂を獲得する理由が見つからない。
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