2011/11/16

笹舟

以前から、自分という器、人間という躯が、川を流れる笹舟のようなもので、ほんとうは生きていることにはなんの意味もなく、ただ流れて、大海に消えていくだけの、儚い存在でしかないという刹那を感じていた。しかし現状という有様を憂いたり、表現の問題を考えたり、日本という歴史を紐解いたり、人間という起源を自分なりに辿っていくうちに、その笹舟の上に、なにかとても大切なものを乗せているのではないかという感慨(予感のようなもの)を、いやおうなく、持つようになってきた。

笹で編んだ舟だから、もろい。あらゆる天災によって、あっというまに解(ほど)けて、川底に沈んでしまう。しかしなんとか運んだその地点からは、別の笹舟が、かわりに背負ってくれる。なぜなら、そんなふうに、自分自身も別の笹舟から受け継いできたという記憶(遺伝かもしれない)があるから。しかしなにを運んでいるのかは、最後までわからない。運ぶことに意味があって、笹舟そのものには、なんの意味もない。生きることも、死ぬことも、一切無意味。無意味だからこそ「なぜ川を流れているのですか?その流れはどこに辿り着くのですか?そもそも笹でできた私という舟を編んだのは、どなたですか?」という様々な疑問が沸いてくる。

その疑問には、すでに答えが含まれている。「あなたは運ぶために存在する。それは細い糸を紡ぐということで、笹で舟を編むことでもあります」。わかったようなわからないような答えが、竹藪から聞こえてくる。竹藪は暗くて怖い。人間よりも怖い。竹藪はときどき自然と呼ばれ、優しいとか、癒されるとかいう都合の良い概念を植え付けられる。しかし竹藪はどんな存在にも支配されることはない。そもそも竹藪は私たちの源泉であり、大いなる記憶だから。そして竹藪そのものは、声を持たない。竹藪の中から聞こえる笹の声は、風の音である。この風こそは、神通。神が通る道。

その道で蛾(が=我)は異(こと=事)に出逢い、その道中で、私心(わたくしごころ)ができあがり、さらに竹藪に潜ろうとする志士たちは、私心を捨て、異(事)を斬り、火に身を投げて、自分を殺す。自分の頭で考えずに、既得権益にすがりついている人たちには、蛾(我)にも蝶にもなれない。芋虫のまま、繭(まゆ)のまま、その背中に羽根がついていることも知らずに、この世に震えている。笹舟になにも乗せていない虚しさから逃れられないまま、あわゆるものが影であることに気づかずに、小さな世界で、死に脅え、無名の志士たちの足音を暗い部屋で聞いている。

笹舟に乗っている大切なものを意識すると、大海に散るだけの、永遠に続こうとする哀しみが、勇気や躍動に反転する瞬間が訪れることがある。その瞬間は「大海を飲み込む一滴の水滴」という言葉の持つイメージに近い。私たちの祖先、突然今生を去った愛すべき人たち、生まれてすぐ消える新しい命、祖国のために、桜の花びらのように散っていった私たちの同胞、今もなお、誰にも看取られずに土の下で眠る英霊たちは、今生を去るその瞬間に、紛れもなく、意識を拡大して、大海を飲み込む一滴の水滴となって、私たちの川となり、同時に矛盾なく、竹藪に戻り、笹となって、私たちそのものを形成している。そしてときどき私たちは、風を呼び、その声を聞こうとする。

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私たちが見ている(脳が選んでいる)限定された世界とは、別の視点から物を見て、現実を整合すると、あきらかに別の秩序でできた世界(断片)が現れる瞬間がある。その秩序の中では「大海を飲み込む一滴の水滴」のような意識の拡大が常となる。そしてその常の秩序を導き出すひとつの手がかりとして、アインシュタインが撤回した宇宙定数(Λ)が、今生に蘇生したのではないのだろうか。

すでに進行しているパラダイムシフト、その意識改革と、福島の問題と、極私的な表現の問題。相容れないはずのそれぞれの問題が、最近僕の中で、ぴったりと寄り添うように、川の流れとして融合して、ゆるやかに同時進行しはじめている。

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