2012/02/25

償い

昨日、朝から免許証更新と二時間講習に警察署にでかけた。講習は八割が交通ルールに関する映像鑑賞だった。酒気帯び運転と交通事故、事故後の人生の痛切さを警鐘する内容で、冒頭と最期にさだまさしの償いという曲がかかっていた。僕は既知だった実話をもとにしたこの曲を、ほとんど無自覚に、違う耳で聞いていた。
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償い 作詩作曲 さだまさし

月末になると、ゆうちゃんは薄い給料袋の封も切らずに、必ず横町の角にある郵便局へとびこんでゆくのだった。仲間はそんな彼をみて、みんな貯金が趣味のしみったれた奴だと、飲んだ勢いで嘲笑っても、ゆうちゃんはにこにこ笑うばかり。

僕だけが知っているのだ、彼はここへ来る前にたった一度だけ、たった一度だけ、哀しい誤ちを犯してしまったのだ。配達帰りの雨の夜、横断歩道の人影に、ブレーキが間にあわなかった。

彼はその日とても疲れていた。人殺し。あんたを許さない。と 彼をののしった。被害者の奥さんの涙の足元で、彼はひたすら大声で泣きながら、ただ頭を床にこすりつけるだけだった。

それから彼は人が変わった。何もかも忘れて、働いて、働いて、償いきれるはずもないが、せめてもと、毎月あの人に仕送りをしている。

今日、ゆうちゃんが僕の部屋へ、泣きながら走り込んで来た。しゃくりあげながら、彼は一通の手紙を抱きしめていた。それは事件から数えてようやく七年目に初めて、あの奥さんから初めて彼宛に届いた便り。

「ありがとう。あなたの優しい気持ちは、とてもよくわかりました。 だからどうぞ、送金はやめて下さい。あなたの文字を見る度に、主人を思い出して辛いのです。あなたの気持ちはわかるけど、それよりどうかもう、あなたご自身の人生を、もとに戻してあげて欲しい」
 
手紙の中身はどうでもよかった。それよりも、償いきれるはずもないあの人から、返事が来たのが ありがたくて ありがたくて ありがたくて ありがたくて ありがたくて。
 
「神様」って、思わず僕は叫んでいた。彼は許されたと思っていいのですか。来月も郵便局へ通うはずの、やさしい人を許してくれて ありがとう。
 
人間って哀しいね。だってみんなやさしい。それが傷つけあって、かばいあって、何だかもらい泣きの涙が、とまらなくて とまらなくて とまらなくて とまらなくて。

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僕はこの歌詞を、加害者(ゆうちゃん)を「人間」、被害者を「自然」と置き換えて聞いていた。

思い返してみると、311のことが頭をよぎっていたのだと思う。しかし聞いているうちに、もっと深くて広い意味が、波紋のように広がっていた。償い、という言葉が、あきらかにこの歌詞の示すものとは、違う意味で聞こえていた。換言するなら、人間と人間にだけ作用していたコードが、ふと気がつくと、片方が、別の次元に繋がっていた。

自然(大いなる秩序)は呼びかけてもなにも言わないので、このような感動させるような歌詞として成り立つことは、絶対にない。もう送金はやめて、あなたの人生を生きてくださいというやさしい言葉は、けっしてかけてくれない。しかし返事が聞こえたような瞬間、幻聴だとわかっていても、そういう瞬間はあるのではないかと思う。その声を許しの声と捕らえるか、黄泉の国からの呼び声と捕らえるか、彼岸と此岸の裂ける音と捕らえるか、それはもう、受け手であるところの自分によって様変わりしていくもので、固定して判断しない方がいいだろうとは思う。

償いとはなにか。そもそも人間が、生まれながらに業を背負っているという自覚、そのものが大前提だと思う。自覚すらないなら、人間同士を慰めているだけということになるのだから。

結局、いくら思考を巡らせても、答えは出なかった。しかし今までの体験を基にした、手がかりはあった。何千年も受け継がれて、大切にされてきたものには、その背負った業の自覚に基づいた、恥じらいのような、気品がある。そこからくみ取れるものがあるし、くみ取らせるために残っているのだと、僕は思った。償いとはなにか。その答えの手がかりとして、最終的にここに帰結していた。  

償いとは、わかりやすいコードで人間と人間を紡ぎ、慰め合い、感動させるやり方ではなく、人知を超えた大いなる秩序にコミットするために、人間にあらかじめ用意された通路のようなものではないかと思う。償うこととは、通ずる路に対する可能性のことであって、すでに生まれながらに持っている業を、しっかりと自覚することによってのみ、その扉が開く。換言するなら、通ずることを、信じること。するとシュロ縄のように、人間同士もねじれて繋がり、いつのまにか人脈ができることもあるだろうと思う。脈ができれば、やがて血は流れるのではないのか。そんなふうに思考を広げていたら、最後は償いという暗みを押しつけられた言葉に陽が射していた。



2012/02/12

ガドルフの百合

夜毎、宮沢賢治の朗読を聴いている。本で言葉を目で追って読むのとは違って、朗読で耳から聴くと、頭に浮かぶ絵が、ある一定の速度を保つので、紙芝居のように浮かぶ映像の流れに心地よい負荷がかかり、まるで暗がりにひっそりと上映される闇映画を見ているような新鮮な気持ちになれる。それにしてもこの人の文章には、心の奥の奧を照らす、なにか特別なてがかりのようなものがある。危険なのに、暖まる、触ると大火傷を負い、死に至るというのに、虚しさに震える心を照らし、暖めてくれるような救いの火がある。まるで炎のような斬り方だなあと思う。

特に気に入って何度も聴いている「ガドルフの百合(ゆり)」という作品。ガドルフという旅人が旅の途中で嵐に逢い、誰もいない黒い家で一夜を過ごすという短い話なのだけど、そこで出会すビジョンというものに、幻想的とか、非日常とか、宇宙的という、いくら言葉を積み上げても、もの足りない普遍性がある。何度聴いてもピタッと自分に張りついてくるというのか、予言的というのか。すべてが残像のようでいて、リアル。しかしあらためて本で読んでみても、同じ感動は得られなかった。おそらく宮沢賢治さんの作品は、自分にとって、耳で聞く方が吸いやすいのだろうと思う。

ガドルフは最後にこうつぶやく(おれの百合は、勝ったのだ)と。ここで物語を超えて、すべてから解放される。最後の最後に、この世の虚しさから抜け出した上で、大きく自分を広げていく魔法。小栗康平監督の「眠る男」で、主人公がブロッケン現象に映った自分の影にたずねた言葉、「埋もれ木」の少女のラストカット、タルコフスキー監督の「ストーカー」の最後の最後で、足の不自由な娘がテーブルの上にあるコップを触れることなくスライドさせるシーン。それらの人生を揺るがす忘れられない映像が、(おれの百合は、勝ったのだ)。という男の確信に満ち満ちた言葉の上に重なる。宮沢賢治は一本の類まれな映画を撮っているような。言葉を使ったのは、当時映写機がなかったからではなく、それが賢治のままならなさ、世界と自分の距離を埋める最良の手段であり、残像のあいまいさを記録する最良の道具だった。だから賢治はその時代に生まれた。そういうことなのだろうと思う。「ガドルフ」という名前、冒頭から出てくる「曖昧な犬」、そして物語を無限に向かって誘導して、伸びていく「百合」。それらすべてが確かに自分の心の奥にいて、雷鳴を待っていた。本当の暗闇を知っている人はみな旅人であり、ガドルフなのではないだろうか。心の奥に黒い家があり、疑うことなくそこに行けば、曖昧な犬がいて、それぞれにとっての百合に出会える。

一晩でも山で一人で野宿したことがある人はわかると思う。夜山は、一切の光を奪い取る。目を瞑っているのか、開けているのか、そんなこともわからなくなるような心持ちになる。そんなとき、もうすっかり見ることをあきらめて(諦)、暗闇にまるごとの自分を放り投げてみると、木々のさざめきや、遠い川のせせらぎや、虫の声が、いつもとは違う質感で聞こえてくる。かっと目を開いたまま、暗闇を見つめて、そのような音色に集中していると、なにやらひとつの物語が目の前で進行しているような気がしてくる。そういう物語の語り部は、心の奥の奥に抱えている虚しさや刹那に対して、とてもおおらかで、優しい。そして目に見えない物語には、目に見える物語だけを信じている人たちに対応するコードが存在していない。だからちぐはぐで唐突、期待に答えるような展開がない。しかしその声を聞き取れるような形で翻訳する人たちがいて、翻訳してきた先人がいて、これからもい続けるだろう。宮沢賢治はまぎれもなくその一人で、作者ではなく、作品として生ききった(逝ききった)人だろうと思う。

宮沢賢治は、耳で聞くことを強くお勧めします。