2012/04/29

剣の光

今日は剣山に御神水を汲みに行った。大剱神社を過ぎて、あと30分くらいで頂上というところで、なんとなく今日は頂上に行くのはやめようと思った。負けず嫌いの性格だから、今まではどんなに時間がなくても、夜になっても、意地でもてっぺんまで登っていたのに、今回だけはふと、たっぷりと時間はあるのに、途中下山したくなったのだ。

下山してすぐのところに広まった場所があり、そこで水が沸いていたので、水を汲もうと歩みを止め、なんとなく空を見上げたら、iphoneカメラの画面からあふれてしまうほどの大きな光輪がでていて、腕に鳥肌が立っていた。その光の輪は、10分ほどでゆるやかに、薄雲に覆われて消えた。

もしあのまま登山していたら、気づかなかったと思う。登山中はおもに周辺の木々や遠方の山々を眺めるくらいで、顔を上げて、真上に近い位置の太陽を見上げるようなことは、ないだろう。頂上にいけばさすがに気づいたと思うけど、すぐに消えたので、それもままならなかったはず。振り返ってみれば、山に登ったら、頂上まで登らなければいけないという思いこみや、せっかくここまで来たのだから、という欲があったら、この光輪には出逢えなかった。それともうひとつ「なんとなく」を受け入れる心のゆとり、必死のなかに現れたり消えたりする、緊張と緩和、その例えようのない隙間のような瞬間。それがなかったら、今日のこの日に、つたない乱文を書くようなこともなかった。

常識や思いこみに捕らわれて、自分は大事なことを見逃していないかと、省みるいい機会になった。こういうふうにしなければいけないとか、こんなふうにするべきだとかと、自分で自分を縛り付けて、ささやかで、大切なことを、見過ごしていまいかと、考えさせられた。

頂上を目指すことに、意味がないとは思わない。目指さなければ、そもそもの光の輪に感動することすらできなかったわけで、その動機が人間の力であり、エネルギー。どこから沸いてきたかよくわからないような欲望に抗えない性(さが)は、美徳だと僕は思う。

しかしながら、今日の太陽(大日如来)からは、こんなふうに教えられたような気がした。

「頂上に立つことも大事だけど、抗えない力に応じる、その必死や、引き裂かれの曖昧のなかにこそ、存在がある。虚飾や知識で飾り付けられた世の力学とはまったく無縁に、凛々と、堂々と、ただありのままに、ありのまま、そこに在る本質とは、世の通力からは、わざと見過ごされやすいような場所を選んで、たたずんでいる」
 



 

2012/04/22

思いこめない世界


昨日、図書館で柳沢桂子という生命科学者の「生命科学で読み解く般若心経」というインタビュー形式のCDを借りた。原因不明の難病で36年も苦しみ続け、夫に自殺の了承を得たものの、娘の必死の懇願によって、死ぬのを思いとどまった彼女は、自身の神秘体験を通して、般若心経を原子論(粒子論)のことだと直感している。

「あたしが、いる(居る)っていうのは、錯覚なんですね。あたしは、いないんですよ」
「それは生まれて死ぬということで、命が変わるのではなくて?」
「ではなくて、しょっちゅう、常時です」

心に残ったのは、彼女の声だった。本で読んだだけだったら、内容を頭で整理したり持ち越しができるので、翌日まで引きずらなかったし、こんなふうに発信したいとも思わなかった。しかし聞き終わった後でネットで調べてみたら、頭に浮かんでいた彼女の雰囲気と、実際の写真が極似していた。だから心にひっつき虫のように離れず、その珍しい一致に、心が驚いていて、振り返って考える機会を翌日に促したのだろう。

声、というのものは、その話す内容とはまた別の、立体的というのか、人生の積み重ねまでを伝えるような不思議がある。でも落ち着いて、よくよく考えてみると、噛み合わないことの方が多い。ラジオの人とか声優の人が、え、こんな感じだったの?と思うことのほうが、圧倒的に多い。それは思いこみが、いかに自分勝手なものなのかを証明している。アニメが受けるのは、その思いこみを満たしてくれる世界だからだと思う。

そういう流行とは違う世界に、仏像建築(超自然?)があるのだろうと思う。「思いこめない世界」に居る自分の姿を映すために、その映し鏡として、憑依しやすいように人間に似せて、仏像は作られた。そのような、見えない世界の、自分。通用されている力学では、確認することが、どうしてもできない姿としての、自分。それを見たいときに、人は、祈るのではないだろうか。その祈るときの手合わせが、見えない次元を映すときの、映写機としての人間の、シャッターを切る儀式なのかもしれない。換言すれば、内なる自然と、外にある自然をリンクさせる儀式。だから今もなお、大切に、丁重に受け継がれているのではないのだろうか。それがいつの時代にも、必要だから。

                             

柳沢桂子という生命科学者は、自死一歩手前の、重い病苦による負荷(ストレス)があったからこそ、脳内麻薬物質が、人並み以上に大量発生してくれて、般若心経と原子論(粒子論)を結びつける閃きに繋がったと、自らおっしゃっている。その反転作用に、その鬱(うつ)を打ち破る突破に、宗教すらかるがると乗り越えてしまうような、説得力と未来があるように思う。声のイメージと現実が一致したのは、そのことを伝えようとする、あちらの世界で通用されている「気づかせ力」のせいなのかもしれない。もっと自分から負荷を受け入れて、肥やしにしなさいと。



2012/04/07

共命鳥(ぐみょうちょう)

今日は朝から土をいじりながら鳥の声を聞いていた。西の梅の木からはウグイス、東の電線からは別の鳥の声がして、一方が鳴くと、一方が返し、また一方が鳴くと、一方が返す。そんなことを繰り返していた。それは美しい音色で、仲が良さそうな会話、美しき自然の戯れのようで微笑ましかったのだけど、それは安全圏にいる人間の耳にはそう聞こえるということであり、じつのところは木の実を奪い合う縄張り争いだと思う。しかしなぜそのような音が、わたしたちの耳には美しく、完璧なまでに調和した音楽に聞こえるのだろうか。もしかしたら人間同士の様々な苦難や喜びの声も、人知を超えた世界からは、地球交響曲のように聞こえているのだろうか。

そんなことを考えていると、ふと、共命鳥(ぐみょうちょう)のことを思い出した。共命鳥とはシルクロードに伝わる伝説の鳥で、体が一つなのに、頭が二つある。一方の頭は昼に起き、一方は夜に起きる。互いにいがみ合っていて、やがて一方が他方に毒を飲ませ、共に死んでしまう。 そういうもの哀しい鳥で、逃れられない人間の性というのか、生まれながらに、そもそもの人間の抱えている業(ごう)、その矛盾と葛藤をこの鳥は象徴している。

普段はテレビを見ないのだけど、ネットをするのでそれなりのニュースは入ってくる。そのときの心持ちが、この共命鳥に似ている。なにか声を大にして叫びたい気持ちと同時に、その声が、もう一方の自分に毒を盛る行為に通じているのではないかという、不安が横切る。行き場を失ったエネルギーは、二つの頭を納得させる答えを探してさんざん彷徨ったあげく、力尽きて野に落ちる。

この共命鳥の生みの親は、鳩摩羅什(くまらじゅう、कुमारजीव)という中国六朝時代の訳経僧で、数奇な運命に翻弄されながらも、広く、わかりやすく、大衆に仏典の内容を広めようと、その生を捧げた。

有名な「色即是空空即是色」「極楽」という言葉も、彼が生み出した。西遊記で有名な玄奘三蔵法師の名は広く世に知られていても、鳩摩羅什の手による「法華経」「阿弥陀経」「般若経」 「唯摩経」「大乗論」などの訳経がなければ、今の聖徳太子の「三経義疏」も「十七条憲法」も存在しなかったわけで、天台、禅、日蓮、浄土諸宗の今日的な繁栄もなかった。また「煩悩即菩提」「悪人救済」の思想や、 共命鳥などは、鳩摩羅什、その人の人生経験の中からうまれたものであり、彼は単なる仏教経典の翻訳家にとどまらず、偉大なる思想家、哲学者であったのだ。
(参考)鳩摩羅什三蔵法師の生涯http://www.tibs.jp/lectures/ohora/ohora04.html

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共命鳥の話には続きがあって、極楽に住む他の鳥たちは、この忌まわしい事件の教訓を生かし、それからは「他を滅ぼす道は己を滅ぼす道、他を生かす道こそ己の生かされる道」と鳴き続けているという。