今日は剣山に御神水を汲みに行った。大剱神社を過ぎて、あと30分くらいで頂上というところで、なんとなく今日は頂上に行くのはやめようと思った。負けず嫌いの性格だから、今まではどんなに時間がなくても、夜になっても、意地でもてっぺんまで登っていたのに、今回だけはふと、たっぷりと時間はあるのに、途中下山したくなったのだ。
下山してすぐのところに広まった場所があり、そこで水が沸いていたので、水を汲もうと歩みを止め、なんとなく空を見上げたら、iphoneカメラの画面からあふれてしまうほどの大きな光輪がでていて、腕に鳥肌が立っていた。その光の輪は、10分ほどでゆるやかに、薄雲に覆われて消えた。
もしあのまま登山していたら、気づかなかったと思う。登山中はおもに周辺の木々や遠方の山々を眺めるくらいで、顔を上げて、真上に近い位置の太陽を見上げるようなことは、ないだろう。頂上にいけばさすがに気づいたと思うけど、すぐに消えたので、それもままならなかったはず。振り返ってみれば、山に登ったら、頂上まで登らなければいけないという思いこみや、せっかくここまで来たのだから、という欲があったら、この光輪には出逢えなかった。それともうひとつ「なんとなく」を受け入れる心のゆとり、必死のなかに現れたり消えたりする、緊張と緩和、その例えようのない隙間のような瞬間。それがなかったら、今日のこの日に、つたない乱文を書くようなこともなかった。
常識や思いこみに捕らわれて、自分は大事なことを見逃していないかと、省みるいい機会になった。こういうふうにしなければいけないとか、こんなふうにするべきだとかと、自分で自分を縛り付けて、ささやかで、大切なことを、見過ごしていまいかと、考えさせられた。
頂上を目指すことに、意味がないとは思わない。目指さなければ、そもそもの光の輪に感動することすらできなかったわけで、その動機が人間の力であり、エネルギー。どこから沸いてきたかよくわからないような欲望に抗えない性(さが)は、美徳だと僕は思う。
しかしながら、今日の太陽(大日如来)からは、こんなふうに教えられたような気がした。
「頂上に立つことも大事だけど、抗えない力に応じる、その必死や、引き裂かれの曖昧のなかにこそ、存在がある。虚飾や知識で飾り付けられた世の力学とはまったく無縁に、凛々と、堂々と、ただありのままに、ありのまま、そこに在る本質とは、世の通力からは、わざと見過ごされやすいような場所を選んで、たたずんでいる」
下山してすぐのところに広まった場所があり、そこで水が沸いていたので、水を汲もうと歩みを止め、なんとなく空を見上げたら、iphoneカメラの画面からあふれてしまうほどの大きな光輪がでていて、腕に鳥肌が立っていた。その光の輪は、10分ほどでゆるやかに、薄雲に覆われて消えた。
もしあのまま登山していたら、気づかなかったと思う。登山中はおもに周辺の木々や遠方の山々を眺めるくらいで、顔を上げて、真上に近い位置の太陽を見上げるようなことは、ないだろう。頂上にいけばさすがに気づいたと思うけど、すぐに消えたので、それもままならなかったはず。振り返ってみれば、山に登ったら、頂上まで登らなければいけないという思いこみや、せっかくここまで来たのだから、という欲があったら、この光輪には出逢えなかった。それともうひとつ「なんとなく」を受け入れる心のゆとり、必死のなかに現れたり消えたりする、緊張と緩和、その例えようのない隙間のような瞬間。それがなかったら、今日のこの日に、つたない乱文を書くようなこともなかった。
常識や思いこみに捕らわれて、自分は大事なことを見逃していないかと、省みるいい機会になった。こういうふうにしなければいけないとか、こんなふうにするべきだとかと、自分で自分を縛り付けて、ささやかで、大切なことを、見過ごしていまいかと、考えさせられた。
頂上を目指すことに、意味がないとは思わない。目指さなければ、そもそもの光の輪に感動することすらできなかったわけで、その動機が人間の力であり、エネルギー。どこから沸いてきたかよくわからないような欲望に抗えない性(さが)は、美徳だと僕は思う。
しかしながら、今日の太陽(大日如来)からは、こんなふうに教えられたような気がした。
「頂上に立つことも大事だけど、抗えない力に応じる、その必死や、引き裂かれの曖昧のなかにこそ、存在がある。虚飾や知識で飾り付けられた世の力学とはまったく無縁に、凛々と、堂々と、ただありのままに、ありのまま、そこに在る本質とは、世の通力からは、わざと見過ごされやすいような場所を選んで、たたずんでいる」