昨日、図書館で柳沢桂子という生命科学者の「生命科学で読み解く般若心経」というインタビュー形式のCDを借りた。原因不明の難病で36年も苦しみ続け、夫に自殺の了承を得たものの、娘の必死の懇願によって、死ぬのを思いとどまった彼女は、自身の神秘体験を通して、般若心経を原子論(粒子論)のことだと直感している。
「あたしが、いる(居る)っていうのは、錯覚なんですね。あたしは、いないんですよ」
「あたしが、いる(居る)っていうのは、錯覚なんですね。あたし
「それは生まれて死ぬということで、命が変わるのではなくて?」
「ではなくて、しょっちゅう、常時です」
心に残ったのは、彼女の声だった。本で読んだだけだったら、内容を頭で整理したり持ち越しができるので、翌日まで引きずらなかったし、こんなふうに発信したいとも思わなかった。しかし聞き終わった後でネットで調べてみたら、頭に浮かんでいた彼女の雰囲気と、実際の写真が極似していた。だから心にひっつき虫のように離れず、その珍しい一致に、心が驚いていて、振り返って考える機会を翌日に促したのだろう。
心に残ったのは、彼女の声だった。本で読んだだけだったら
声、というのものは、その話す内容とはまた別の、立体的というのか
そういう流行とは違う世界に、仏像建築(超自然?)があるのだろうと思う。「思いこめない世界」に居る自分の姿を映すために、その映し鏡として、憑依しやすいように人間に似せて、仏像は作られた。そのような、見えない世界の、自分。通用されている力学では、確認することが、どうしてもできない姿としての、自分。それを見たいときに、人は、祈るのではないだろうか。その祈るときの手合わせが、見えない次元を映すときの、映写機としての人間の、シャッターを切る儀式なのかもしれない。換言すれば、内なる自然と、外にある自然をリンクさせる儀式。だから今もなお、大切に、丁重に受け継がれているのではないのだろうか。それがいつの時代にも、必要だから。
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柳沢桂子という生命科学者は、自死一歩手前の、重い病苦による負荷(ストレス)があったからこそ、脳内麻薬物質が、人並み以上に大量発生してくれて、般若心経と原子論(粒子論)を結びつける閃きに繋がったと、自らおっしゃっている。その反転作用に、その鬱(うつ)を打ち破る突破に、宗教すらかるがると乗り越えてしまうような、説得力と未来があるように思う 。声のイメージと現実が一致したのは、そのことを伝えようとする、あちらの世界で通用されている「気づかせ力」のせいなのかもしれない。もっと自分から負荷を受け入れて、肥やしにしなさいと。
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