2012/09/19

気になる出来事

今朝、バイクで山を下りていたら、不動院という陰陽師さんがいる場所の付近の国道で、車にひかれたらしき動物(このへんではそんなにめずらしいことではない)と、そのそばに一匹の犬がいた。その犬は座り込んで、じっと横たわったその子を見つめている。凝視して動かない。もしかしたら親子かもしれないと思ったので、あわててUターンして、その場所に戻った。だけどひかれていたのはイタチだった。犬はこちらを上目遣いで見たあと、、またイタチを凝視して、ぴくりとも動こうともしない。なんだかとても気になったので、iphoneカメラで写真を撮った。


とにかくこのままではいけないので、イタチを抱いて、道路脇に寄せた。


するとその犬は、イタチを見ながらむくっと立ち上がった。


それからこちらに向かって、トボトボと歩いてきた。

こんなふうに三枚の写真を撮った。いそいでいたので撮った写真の確認はしなかった。そして山を下りる道中、あれはなんだったろうと考えていた。てっきり子連れの犬で、親犬がその哀しみに動けなくなったのかと想像していた。だけど、違った。やせた犬だったので、イタチを食料の魅力として見つめていたのだろうと推理した。でもそれなら、イタチを道路脇に寄せたあと、匂いでも嗅ぎにいくくらいのことをするのではないだろうか。そう思った。あの犬はそうはしなかった。イタチを見つめたまま立ち上がり、こちらに歩いてきたあと、用事をすませたかのようにそそくさと去っていった。それからいつのまにか、犬のことはすっかり忘れていた。

私用でせわしない一日だったので、思い出したのは、晩ご飯を食べて満腹の、気の抜けた無心の時間だった。誰かに急かされるようにiphoneで写真を確認すると、上の三枚の写真に続いて、まるで撮った記憶のない、変な写真が映っていた。


これと同じ写真が、二枚続いて、アルバムが終わっていた。

記憶にはないのだけど、間違って撮影ボタンを二回押したのだろう。でもそういうときは、きまって画面は真っ黒になる。こんな色になったのは、はじめてだった。だからどうということはない。日光が当たっているときに押してしまったとか、詳しく調べれば、原因はわかることだろう。ただ今日は、今朝のあの犬との時間以外にカメラは使っていない。そういうタイミングが、気になった。人に話してもうまく伝わらないような、それがどうしたという出来事だけれども、そんなとらえどころのなさが、ぎゃくに心に残った。

気になる出来事とは、なにものかによって引き起こされたものではなく、目の前で起こったある現象に対して、自らが、自らに向かって引き起こした衝突事故のような意識の火花(スパーク)であり、不可思議なタイミングを利用して生み出された波形のようなものだと思う。だとしたら、波を生み出し、火を放つふたつの力がある。普段、日常に思い、考えられる領域とは別に、くらい場所で眠っているような、意識できない存在が、個のなかにたしかにいるという証拠だといえる。その眠っているものに対して、寄り添っていきたいという気持ちがある。この寄り添いたいという気持ちは、なぜか山に入りたいとか、森を歩きたいとか、川を見ていたいとか、秋虫の声を聞いていたいとか、自然に触れたり、畏れを抱いていたいという気持ちに、鏡のような相似形のようで、どこかよく似ている。それがなぜだかはわからないのだけど、似ているということは自身の経験を通しているので、揺るぎない。そしてそのことが、連なってきた人間の歴史、積み重なっていく今日の有事が創り出す気配の波長とも、無関係とは思えない。それほどに大きななにかとは。今朝のことはいったいなにを示唆しているのか。そんなことを考えさせる一日だった。

2012/9/19


2012/09/15

人間の成すこと

田舎で暮らしはじめてからというもの、ごく身近に触れあう虫や鳥、小さな動物たちに、どこかただならないような繋がりを感じはじめている。山を下りて、雑踏にいてさえ、空を飛び、花に集まる生き物たちに、同郷の友人を見つけたような興味が沸いてくる自分を見つけて、はっとすることがある。まるで生き物に興味がなかったころのやさぐれた自分を重ねて、この変わり様はなんだと自問自答したくなる。あれだけ苦手で避けていた花の絵を、いまは何枚も描いていたり。そのような、世界の受け止め方の変化は、自分の心の奥にある、内なる声に応じた結果だと思う。なにがあろうと、その声にだけは従っていこうという気概はあると思う。なぜならその応じる行為、そのリアクションが、生きる甲斐そのものだと思うから。だけどときどき、おまえは誰だと、たずねたい気持ちはある。

昨日は図書館の庭で、ミツバチの観察に時を費やした。ミツバチを見ると、樋口のじいさんの蜂蜜取りを手伝ったときのことを思い出す。しかけた蜂箱から蜂の巣を取りだして、一升瓶くらいの蜂蜜をとる。ミツバチが一年間、がむしゃらに働いて貯めた蜜を、その家もろとも破壊して、富を根こそぎ奪いとっているというのに、ミツバチは、その略奪者の素手や顔にとまっても、ぜんぜん刺さない。怒っている様子もなく、どこか他人事のような達観で、いつものように、いつもの調子なのだ。なぜ。
ミツバチは人間を敵と思っていない、というよりも、そもそも人間を、ひとつの生命体(個体)として、うまく把握できていないというのが、ほんとうのところだと思う。同じ体格のスズメバチの侵入には、怒りをあらわにして、決死の集団による熱球でもって、攻撃するのだから。

虫や小動物にとって、人間の成すことは、天災のような側面があると思う。だとしたら、人間にとっても、人知を超えたものが成すことが、天災のような、把握できない事象として映っているのかもしれない。人間関係に疲れたりしたときに、昆虫や動物の世界に目線を合わせたり、反対に星空を眺めたりするだけで、すこし救われたような気持ちになれるのは、人間では把握できない、ひとつのおおきな生命体(大きな孤、リングのような)が、ひとりの人生や、人間という歴史そのものに深い
影響を与えているという可能性を、どこか普段の意識では認識できないような領域で、感じて、受け入れているからだと思う。見つめているものに、見つめられて、忘れかけていたことによって、思い出させられているという矛盾のなかで。

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江戸時代の剣豪、宮本武蔵が描いた水墨画に、にらみ合う二羽の鶏を、布袋さんが、上から悠然と眺めおろしているという構図の「布袋見闘鶏図」という絵がある。この作品の所蔵者である茶人、松永耳庵は「布袋という絶対者が、争いの絶えない世間を見つめている」と言ったそうだ。