昨日は図書館の庭で、ミツバチの観察に時を費やした。ミツバチを見ると、樋口のじいさんの蜂蜜取りを手伝ったときのことを思い出す。しかけた蜂箱から蜂の巣を取りだして、一升瓶くらいの蜂蜜をとる。ミツバチが一年間、がむしゃらに働いて貯めた蜜を、その家もろとも破壊して、富を根こそぎ奪いとっているというのに、ミツバチは、その略奪者の素手や顔にとまっても、ぜんぜん刺さない。怒っている様子もなく、どこか他人事のような達観で、いつものように、いつもの調子なのだ。なぜ。ミツバチは人間を敵と思っていない、というよりも、そもそも人間を、ひとつの生命体(個体)として、うまく把握できていないというのが、ほんとうのところだと思う。同じ体格のスズメバチの侵入には、怒りをあらわにして、決死の集団による熱球でもって、攻撃するのだから。
虫や小動物にとって、人間の成すことは、天災のような側面があると思う。だとしたら、人間にとっても、人知を超えたものが成すことが、天災のような、把握できない事象として映っているのかもしれない。人間関係に疲れたりしたときに、昆虫や動物の世界に目線を合わせたり、反対に星空を眺めたりするだけで、すこし救われたような気持ちになれるのは、人間では把握できない、ひとつのおおきな生命体(大きな孤、リングのような)が、ひとりの人生や、人間という歴史そのものに深い影響を与えているという可能性を、どこか普段の意識では認識できないような領域で、感じて、受け入れているからだと思う。見つめているものに、見つめられて、忘れかけていたことによって、思い出させられているという矛盾のなかで。
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江戸時代の剣豪、宮本武蔵が描いた水墨画に、にらみ合う二羽の鶏を、布袋さんが、上から悠然と眺めおろしているという構図の「布袋見闘鶏図」という絵がある。この作品の所蔵者である茶人、松永耳庵は「布袋という絶対者が、争いの絶えない世間を見つめている」と言ったそうだ。
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