2013/09/08

無心時間

昨日今日と、雨の合間を縫って、伸び放題だった草をむしっていた。土が濡れていると、地面がやわらかくなるので抜きやすい。草を抜くときに、ビリビリビリっと手のひらに、雑草の小さな声が響いてくる。まるで交換電流のように。その響きが、快感として、雑草からなにか力を分けてもらっているような気がしている。雑草の魂が、手のひらから入ってくるというのか。雑草は、勝手に伸びている。ちょっと目を離したすきに、問答無用で根を張って生き生きと生きている。そういう生物としての逞しさが、具体的なリアリティとして、手のひらから、ビリビリビリビリと伝わってくる。それは小さな響きなのだけど、自分でも気がつかないような、心の奥の襞を、揺らしているような波動がある。雑草を抜いているとき、きっと土の世界を感じているんだと思う。草と関係を持つことによって、見えていない地下世界の営みと、植物の時間感覚を、手のひらで受け取っている。だから小さな響きでも、心の深いところで、波紋のように広がっていく。

むしっているのは、おとなりの樋口のじいさんの土地だけど、じいちゃんは今、風邪で入院している。じいさんのいない間に草が伸び、荒れ放題になるのは、ちょっと心苦しいという気持ちが、自分を草むしりに駆り立てた。たかが草むしりだけど、されど草むしり。無心になれる、その運動のなかで、手のひらから入ってくるエネルギーがある。根を張っている地下世界は、外からは見えない。派手に騒いでいる表層は、ぐんぐん進んでいる、その地下世界の、複雑に満ちた営み、その混沌に起因している。そのカオスにアクセスしているということは、普段、意識している惰性の日常から抜け出して、心身が旅をしていると言えるだろう。心が地下に、潜っていく。なにも考えずに草むしりしていると、日常でパターン化されている時間のリズムが消えている。腹が減ってきたとか、また雨が降りそうだなとか、風の匂いが来たな、とか、そのような肉体として感覚機能に敏感になり、霊感が研ぎ澄まされて、内と外が草と土の匂いを介して、エネルギーが交流する。外から見ればつまらない単純労働に見えるだろうけど、そうではない。小さいながらも、草といういのちを摘み取っているという経験値と、草に隠れて見えていなかった、あらゆる昆虫との新鮮な出逢い、見えない世界への心の沈殿は、流行っているので、それじゃあいこうか、という表面的な旅よりも、内在経験としての哲学の芽吹きがある。いたって地味に見える無心時間のなかに、静かに落ちて波紋する一滴の無心の汗は、人生を記憶している。