2013/12/31

メメント・モリ


大晦日。焼山寺、奥の院へと続く雪山へ。山雀に囲まれて、タヌキの足跡を追いかけて、喉が渇いたら、雪を囓る。焼山寺の奥の院は目立たぬ小さな祠だけど、そこはかとない威厳がある。そしていつも誰もいない。目立たず、知られず、ひっそりと、ただ枯れて、散るだけの侘びしさと、無常というものが漂っている。ここですこしばかり、瞑想した。とは言っても、座っているだけのこと。頭だけが冴えて、高感度で覚醒する。

瞑想(Meditation)って、なんだろうか。わかったようで、わからないところがある。人それぞれの性質にピントが合った状況があると思う。自分の場合を考えると、たぶん画布に向かっているときが、それに近い状態だと思う。瞑想状態にあっても、もちろん手は動いているし、色の調合などはできる。だけど背後から名前を呼ばれたりしても、返事ができにくい状態にある。聞こえてはいても、対応しにくい。肉体労働にはまっているときによく似ていて、自分の体(マシン)を運転しているような酩酊状態。それでいて心身が消滅するような、なんとなく眠くなっているのに、意識が透明にメンテナンスされて、力強く冴えていくような態度。

メメント・モリ。目(覚)めんと、森(ヘ)。

死を想う時間なんだと思う。知覚の扉を半開きにして、あらゆる通路を確保する。第一の直観って、雑念や常識、世間体や情念など、あらゆる要素に揺さぶりをかけられて、消えてしまうものがほとんどで、第二、第三の直観に変容したり、記憶に保留されて、破片として夢の世界に散らばる。瞑想って、その揺さぶりを止める在り方の、ひとつの型(format)なのではないだろうか。

剣山山系を見渡した。下の方から、鐘の音が聞こえた。





タブラ・ラサ

タブラ・ラサ。

タブラ・ラサ(tabula rasa)とは、ラテン語で、白紙状態、何も書かれていない書板、という意味がある。感覚的経験をもつ前の心の状態を、比喩的に表現したもので、人間の知識の起源に関し、生得観念を否定する経験論の主張を概括する言葉。

空が崩れるような、暗く、厳しく、美しい吹雪。
長く続く雨の日や、いつもの風景が失われていくような白雪の時間には、タブラ・ラサを感じる。
原始の記憶を透過する、心の真空がやってくる。

One way to open your eyes is to ask yourself,
"What if I had never seen this before?
What if I knew I would never see it again?"
 Rachel Carson

(目を開くひとつの方法は、自分自身に問いかけてみることです。
もしこれが、今までに一度も見たことがなかったものだとしたら?
もし、これを二度とふたたび見ることができないとしたら?と)
レイチェル・カーソン



2013/12/08

鳥のように


鳥って、自然物と人工物の区別がない。自然と人工物を分けて考えてしまうのは、人間だけ。動物、とくに鳥は、場所を選ばず、電線や電柱なんかに、たくさんとまっている。とまり木が、枝なのか、電線なのか、それは眼中にない。潔く、生命のままに、過酷な状況を、ただ生きるのみ。それだけ。巣も、人間のようにローンを組んで買ったりしない。そもそも土地なんて、ほんとうは誰のものでもないはず。だから人家の軒下とか、電柱の上とかに、平気で巣を作る。それは野蛮ではなく、自然なこと。野蛮なのは、人間の方だろう。それがわかっているから、昔の人は、ツバメの巣ができる家は、縁起がいいと伝えてきた。鳥の巣を見ると、ビニールのヒモとか、糸くずなんかが混じっている。鳥を見ていると、間接的に、人間が、自然の一部なのだなと思い知らされる。

最近、変電所に行く機会があって、詳しい人に聞いてみたら、あれは50万ボルトの電流が流れているらしく、人が入らないように立ち入り禁止にして、鉄条網を張ってあるだけなのだけど、人間が指一本でも触れたら、感電して、ほとんどの場合、即死するそうだ。ただし鳥は、いくら止まっても平気。大地に足がついていないから、電気が入っても、抜ける場所がないで、電流にならない。人間でも、鳥のように体だけで飛びつくことができれば、全毛が逆立つだろうが、いくら高圧でも、感電しない。しかしほんのわずかでも、べつのなにかに触れていれば、感電死する。自分の作ったものに、自分が破壊される。人間が、人間に、破壊される。鳥のように、自由にはなれない。蛇なんかでも体が長くて接地面が大きいので、感電するそうだ。あのほんのごく小さな足の裏の接地、なにものにも依存せずに、自分の力のみで飛べる鳥にしかできない、不死身。その話を聞いたとき、みずからの体を炎に投じて、だからこそ何度も蘇り、再生する不死鳥(火の鳥)のイメージが重なった。

この重力の世界で、自分の力だけで、空を飛ぶということが、どれほど過酷で、どれほど自由なのだろうか。

『<われ>であってはいけない。まして、<われわれ>であってはなお、いけない。くにとは、自分の家にいるような感じを与えるもの。流竄の身であって、自分の家にいるという感じをもつこと。場所のないところに、根をもつこと』
Simone Weil

鳥は、場所のないところに、根を持っているのではないかという印象を、人間に与えてくれている。そして、その声。鳥はその妖しくて美しい声で、言葉にならないことを表現している。鳥は人間にとってのメッセンジャーであり、神の使者なのだと思う。神即自然。わたしたちの魂は、どこから生まれ、どこに行くのだろうかと。そのような謎を背中に乗せて、いつの時代も、なにかを伝えようとしてくれている。