鳥って、自然物と人工物の区別がない。自然と人工物を分けて考えてしまうのは、人間だけ。動物、とくに鳥は、場所を選ばず、電線や電柱なんかに、たくさんとまっている。とまり木が、枝なのか、電線なのか、それは眼中にない。潔く、生命のままに、過酷な状況を、ただ生きるのみ。それだけ。巣も、人間のようにローンを組んで買ったりしない。そもそも土地なんて、ほんとうは誰のものでもないはず。だから人家の軒下とか、電柱の上とかに、平気で巣を作る。それは野蛮ではなく、自然なこと。野蛮なのは、人間の方だろう。それがわかっているから、昔の人は、ツバメの巣ができる家は、縁起がいいと伝えてきた。鳥の巣を見ると、ビニールのヒモとか、糸くずなんかが混じっている。鳥を見ていると、間接的に、人間が、自然の一部なのだなと思い知らされる。
最近、変電所に行く機会があって、詳しい人に聞いてみたら、あれは50万ボルトの電流が流れているらしく、人が入らないように立ち入り禁止にして、鉄条網を張ってあるだけなのだけど、人間が指一本でも触れたら、感電して、ほとんどの場合、即死するそうだ。ただし鳥は、いくら止まっても平気。大地に足がついていないから、電気が入っても、抜ける場所がないで、電流にならない。人間でも、鳥のように体だけで飛びつくことができれば、全毛が逆立つだろうが、いくら高圧でも、感電しない。しかしほんのわずかでも、べつのなにかに触れていれば、感電死する。自分の作ったものに、自分が破壊される。人間が、人間に、破壊される。鳥のように、自由にはなれない。蛇なんかでも体が長くて接地面が大きいので、感電するそうだ。あのほんのごく小さな足の裏の接地、なにものにも依存せずに、自分の力のみで飛べる鳥にしかできない、不死身。その話を聞いたとき、みずからの体を炎に投じて、だからこそ何度も蘇り、再生する不死鳥(火の鳥)のイメージが重なった。
この重力の世界で、自分の力だけで、空を飛ぶということが、どれほど過酷で、どれほど自由なのだろうか。
『<われ>であってはいけない。まして、<われわれ>であってはなお、いけない。くにとは、自分の家にいるような感じを与えるもの。流竄の身であって、自分の家にいるという感じをもつこと。場所のないところに、根をもつこと』
最近、変電所に行く機会があって、詳しい人に聞いてみたら、あれは50万ボルトの電流が流れているらしく、人が入らないように立ち入り禁止にして、鉄条網を張ってあるだけなのだけど、人間が指一本でも触れたら、感電して、ほとんどの場合、即死するそうだ。ただし鳥は、いくら止まっても平気。大地に足がついていないから、電気が入っても、抜ける場所がないで、電流にならない。人間でも、鳥のように体だけで飛びつくことができれば、全毛が逆立つだろうが、いくら高圧でも、感電しない。しかしほんのわずかでも、べつのなにかに触れていれば、感電死する。自分の作ったものに、自分が破壊される。人間が、人間に、破壊される。鳥のように、自由にはなれない。蛇なんかでも体が長くて接地面が大きいので、感電するそうだ。あのほんのごく小さな足の裏の接地、なにものにも依存せずに、自分の力のみで飛べる鳥にしかできない、不死身。その話を聞いたとき、みずからの体を炎に投じて、だからこそ何度も蘇り、再生する不死鳥(火の鳥)のイメージが重なった。
この重力の世界で、自分の力だけで、空を飛ぶということが、どれほど過酷で、どれほど自由なのだろうか。
『<われ>であってはいけない。まして、<われわれ>であってはなお、いけない。くにとは、自分の家にいるような感じを与えるもの。流竄の身であって、自分の家にいるという感じをもつこと。場所のないところに、根をもつこと』
Simone Weil
鳥は、場所のないところに、根を持っているのではないかという印象を、人間に与えてくれている。そして、その声。鳥はその妖しくて美しい声で、言葉にならないことを表現している。鳥は人間にとってのメッセンジャーであり、神の使者なのだと思う。神即自然。わたしたちの魂は、どこから生まれ、どこに行くのだろうかと。そのような謎を背中に乗せて、いつの時代も、なにかを伝えようとしてくれている。
鳥は、場所のないところに、根を持っているのではないかという印象を、人間に与えてくれている。そして、その声。鳥はその妖しくて美しい声で、言葉にならないことを表現している。鳥は人間にとってのメッセンジャーであり、神の使者なのだと思う。神即自然。わたしたちの魂は、どこから生まれ、どこに行くのだろうかと。そのような謎を背中に乗せて、いつの時代も、なにかを伝えようとしてくれている。
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