奇妙な夢をよく見る。知らない土地なのに、どこか懐かしい感じがする。解せないのは、主体が自分ではないこと。まったく知らない誰かの体を借りて、夢で体験している。知人や友人が出てくるような自分事なら、状況が破綻していても、単なる夢だけど、時代も国も違うし、場所や出来事に、思い当たることがないと、ユングにも解けないような不思議を抱えこむ。
寝ているときの自分は、時間や空
間に縛られない。とてもリアルで
、シリアスなことが多く、脳の編
集とか、空想(夢想)という感じ
はしない。実際にあった現実を、
誰かの体を借りて、見ているよう
な気がする。もしそうだとしたら
、自分の体を借りて、誰かが夢を
見ていることも、あるのかもしれ
ない。
山や森に入ると、独りなのに、豊
かな気持ちになれる。ぼぉーっと
なにも考えられなくなる、その透
明な時間に、いまここにはいない
、どこかの誰かが、自分の体を通
して、夢を見ているとしたら、そ
れは豊かなことだと思う。
手付かずの山を登るとき、頭より
先に、体が反応しているとしか、
思えない場面がある。あれは運動
神経というよりも、誰かが、森の
囁きを通して、安全な場所に、自
分を誘導してくれているのだと思
う。神経はそれを感受するアンテ
ナ。囁きは耳には聞こえないけど
、体が聞いている。その聞こえな
い音を、精霊の声と呼んでも、さ
しつかえはない。
間伐をしているので、後ろめたく
はないけど、樹を斬り倒すときは
、手を合わせる。未来から過去へ
、一瞬だけ森の時間が裂けて、そ
の真空から、新しい風が体を吹き
抜ける。(ありがとう)という声
が、聞こえたことがある。それが
自分の声とは思えなくて、夢を見
ているような、ふわふわした気持
ちになったことがある。
眠りにつくように、世界に体を貸
す(預ける)と、樹木は囁く。そ
の言葉にならないような声は、こ
こにはいない誰かの夢のなかで、
響いているのだろうか。自然は意
思を持っていて、私たちには理解
できないような方法で、なにかを
伝えようとする。
夢を見た。戦国時代、敵対していた、ある人を斬った。後ろから斬った。卑怯なやり方だった。でもやらなければ、やられていたから、後悔はなかった。しかし亡骸を見ていると、激しい後悔の念がわきあがり、その人が現世では、大切な人だったことに気づいた。夢だとわかっていたので、過去に戻って、その人と出会わないように、主体の行動を配慮した。すると、その人が生きている現実が現れた。しかし、既に斬ってしまった事実は消えず、二つの風景が重なって、混乱する人たちがいた。すでに起こってしまったことは、変えることができなかった。
しばらくは二つの現実が重なっていて、世界に混乱が続いたが、二人が出逢わずに、生きている現実の方に、世界の存在感(重み)があったので、斬られたはずの歴史は、バランスを取りながら、引きずられるように、大いなる時間の流れから離れて、ゆっくり消えていった。ほっとするように、目をさました。
時計を分解しても時間が見つからないように、時計の針を過去に戻しても、起こってしまったことを、変えることはできない。でも未来は選ぶことができるので、いまこの瞬間に、人生をやり直すことはできる。再生した時間に、蘇生した魂は、定められたはずの運命さえ、塗り変えてしまう。
相対性理論に基づくと、自分の時間をゴムのように伸ばすことによって、未来に行くことは可能だけど、それは光の速度に近づいた身体だけが、大いなる時間の流れから離れて、取り残されてしまうということ。取り残されて寂しいから、未来の夢を見ている。そんなことをしなくても、旅に出ることはできる。パラドックスを抱えた過去でさえ、見に行くことができる。根が過去に向かって伸びていくから、枝葉は未来に向かって伸びていく。戻ってくる現在があるから、旅に出ることができる。
死んだらどこに行くかを考えるよりも、眠っている自分が、どこに行くかを考える方が、夢がある。過去や現在や未来という座標を外すと、輪廻は自然に解消する。前世や来世を担保しなくても、時空を離れた、かろやかな魂の動きが、不思議なやり方で、どんな対象にも入り込み、いまここに輝く永遠を獲得する。言い換えると、自由になれる。