2016/01/15

奇妙な夢をよく見る。知らない土地なのに、どこか懐かしい感じがする。解せないのは、主体が自分ではないこと。まったく知らない誰かの体を借りて、夢で体験している。知人や友人が出てくるような自分事なら、状況が破綻していても、単なる夢だけど、時代も国も違うし、場所や出来事に、思い当たることがないと、ユングにも解けないような不思議を抱えこむ


寝ているときの自分は、時間や空間に縛られない。とてもリアルで、シリアスなことが多く、脳の編集とか、空想(夢想)という感じはしない。実際にあった現実を、誰かの体を借りて、見ているような気がする。もしそうだとしたら、自分の体を借りて、誰かが夢を見ていることも、あるのかもしれない。

山や森に入ると、独りなのに、豊かな気持ちになれる。ぼぉーっとなにも考えられなくなる、その透明な時間に、いまここにはいない、どこかの誰かが、自分の体を通して、夢を見ているとしたら、それは豊かなことだと思う。

手付かずの山を登るとき、頭より先に、体が反応しているとしか、思えない場面がある。あれは運動神経というよりも、誰かが、森の囁きを通して、安全な場所に、自分を誘導してくれているのだと思う。神経はそれを感受するアンテナ。囁きは耳には聞こえないけど、体が聞いている。その聞こえない音を、精霊の声と呼んでも、さしつかえはない。

間伐をしているので、後ろめたくはないけど、樹を斬り倒すときは、手を合わせる。未来から過去へ、一瞬だけ森の時間が裂けて、その真空から、新しい風が体を吹き抜ける。(ありがとう)という声が、聞こえたことがある。それが自分の声とは思えなくて、夢を見ているような、ふわふわした気持ちになったことがある。

眠りにつくように、世界に体を貸す(預ける)と、樹木は囁く。その言葉にならないような声は、ここにはいない誰かの夢のなかで、響いているのだろうか。自然は意思を持っていて、私たちには理解できないような方法で、なにかを伝えようとする。

夢を見た。戦国時代、敵対していた、ある人を斬った。後ろから斬った。卑怯なやり方だった。でもやらなければ、やられていたから、後悔はなかった。しかし亡骸を見ていると、激しい後悔の念がわきあがり、その人が現世では、大切な人だったことに気づいた。夢だとわかっていたので、過去に戻って、その人と出会わないように、主体の行動を配慮した。すると、その人が生きている現実が現れた。しかし、既に斬ってしまった事実は消えず、二つの風景が重なって、混乱する人たちがいた。すでに起こってしまったことは、変えることができなかった。

しばらくは二つの現実が重なっていて、世界に混乱が続いたが、二人が出逢わずに、生きている現実の方に、世界の存在感(重み)があったので、斬られたはずの歴史は、バランスを取りながら、引きずられるように、大いなる時間の流れから離れて、ゆっくり消えていった。ほっとするように、目をさました。

時計を分解しても時間が見つからないように、時計の針を過去に戻しても、起こってしまったことを、変えることはできない。でも未来は選ぶことができるので、いまこの瞬間に、人生をやり直すことはできる。再生した時間に、蘇生した魂は、定められたはずの運命さえ、塗り変えてしまう。

相対性理論に基づくと、自分の時間をゴムのように伸ばすことによって、未来に行くことは可能だけど、それは光の速度に近づいた身体だけが、大いなる時間の流れから離れて、取り残されてしまうということ。取り残されて寂しいから、未来の夢を見ている。そんなことをしなくても、旅に出ることはできる。パラドックスを抱えた過去でさえ、見に行くことができる。根が過去に向かって伸びていくから、枝葉は未来に向かって伸びていく。戻ってくる現在があるから、旅に出ることができる。

死んだらどこに行くかを考えるよりも、眠っている自分が、どこに行くかを考える方が、夢がある。過去や現在や未来という座標を外すと、輪廻は自然に解消する。前世や来世を担保しなくても、時空を離れた、かろやかな魂の動きが、不思議なやり方で、どんな対象にも入り込み、いまここに輝く永遠を獲得する。言い換えると、自由になれる。

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