呼ばれたような気がして、左右内の一本杉に出かけた。残雪で路面凍結していたので、途中からバイクを置いて雪路を登ると、お大師さんが見えなくなるくらい後光が射していた。山の主が迎えてくれると、いつも空間に霊気が満ち溢れて、神秘が響き渡る。
樹と光に包まれた修行大師を見ていたら、なぜだかふと、木に侵食されていく木像のことを思い出していた。山の主が神通力で自然に還っていくイメージを思い出させてくれたのだろう。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し。
大の大人が、ふと呼ばれた気がして山に登ったり、木に逢いに行ったり、河原に石を拾いに行ったり、海に流木を見に行く。外から見れば、変人(狂人)だろうなと思う。たしかにはっきりとした目的はないので本人も大丈夫か?と思うことはある。でもその徒労を、祝福してくれる光がある。それは自分を信じて、そこに辿り着いてみなければ、見ることができない光。たぶん人は生を終えるとき、この光に包まれるのだと思う。
頭のよい人が合理的ではないこと、無駄なことを避けるのは、たぶん死を恐れているからだろう。物質的時間=生と思いこんでしまっている。でも生命の本質は、時を超越する視点からしか辿り着けない。自分は頭が良いと思っている人ほど、意外なほど物事の本質を理解していないことがある。
その逆に、自分は頭が弱くて、情報弱者、思ったことを言葉にするのも下手だと思っている人ほど、本質を見抜いて、理解していることがある。それはその人の絵を見てもわかることがある。周りからは不器用と思われることが多いが、マンガやアニメなどの外的影響を受けない自分の世界があり、霊線(レイライン)を持っている。既存のアートがアウトサイダーアートに敵わないのも、同じ理由。彼らはけして自分に酔わない。
思ったことが言語化しにくいのは、霊的(詩的)な領域で物事を捉えてしまうからだろう。でも物事を分析して言語化する能力よりも先に、霊的領域に育まれる野生的直感力の方が、少なくとも生命にとっては大切なことだろう。わたしはわたしだけではなく、大いなる宇宙の生命そのものに浸透することがあるのだから。
わたしなんて世界に必要とされていないと思っている人ほど、宇宙は強く抱きしめて離さない。お遍路さんがあの山を自分の足で登るのは、そのことを心の何処かで理解していて体験したいからだろう。
亡くなった後にどれだけの人が涙を流したかがその人の価値だと誰かが言っていたけど、それは違うなと思う。価値はその人の行いや偉業ではなく、生命そのものに寄り添っているはずだから。その人の価値はその人のもので、世間や他人が決めることではない。
ほんとうに大切なものが目には見えないのは、誰からも奪われないように生命に守られているから。自分を小さく感じる人ほど宇宙が強く抱きしめて離さないのは、そのことに気づかせるため。人は独りで生まれて独りで死んでいくけど、その独りは世界より大きい。
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