ある日、樹の中から顔が現れた。浮かんできたというより、樹の中から生えてきた。それは今までにない新しい感覚だった。
瘤(こぶ)のようにどんどん浮かんできた顔は、やがて樹の全体を覆いつくし、それらは詩人の樹、哲学の樹、覚者の樹と呼ばれるようになった。
龍も現れた。最初はトカゲだったが、やがて数が増え、龍に化身して、樹の中を縦横無尽に駆け回った。その中央から一匹の龍が現れたと思うと、白い影だけを残して天に消えた。
なんだこれは…?という誰とも共有できないような不思議な感覚を引きずっていた。
その頃からだったと思う。ゼウス、モーセ、天使、マリアさま…。普段から慣れ親しんでいる自然の中から、神さまが現れたのは。
最初はギリシア時代の古い神の姿が多かったが、紅葉が始まったり、梅や桜が咲くころに、東洋、日本の神さまや幻獣が現れはじめた。きっと彼らは、四季の移ろいに親和性があるのだろう。
人の姿をした神様なんていないと思っているのに、人の姿をした神様を描いていると気が安らぐのはなぜだろうか。
それはたぶん、神様が自分の中にいるから。よく言われることだけど、知識ではなく、現場で感じて、描いてみると実感としてよくわかる。それはいつも外からではなく、内側から現れる。
神即自然→自然即我→我即宇宙→宇宙即神 ∞
そうして円環を描きながら、わたしたちは輪廻(ダンス)している。
前世の記憶や生まれ変わりとは、過去から未来に向かう時間の矢に基づいて限定された、人間世界の魂のコードのこと。だからニーチェは神は死んだと言い放ち、永劫回帰を語り、超人思想を示した。
神の名を借りて、霊感で他人の人生を支配しようとする指導者や集団が必ず腐敗するのは、その思想の根源に宇宙や自然への同調、動物や植物への愛が足りないから。
時間の矢を見渡す視座から見れば、私たちの前世は星であり、緑であり、虫であり、この一瞬に輝く全て。それを思い出すだけで、魂は永遠の一瞬に満たされるはず。神即自然。わたしたちは自然の一部であり、内側から自然(神)の姿を眺めている。
そうして4冊目のartbook「神即自然」が完成した。装丁は大好きな青空のようなスカイブルー、その金銀振雲竜和紙の結界の中には、神々の光が輝いていた。臨場感があるので、見てるだけで元気になれた。
お釈迦さまは日輪を描いて、よくここまで来たなと微笑んでくれた。自分が納得すればそれでよいという気持ちで、100%好きなように、無意識に導かれるようにして作った、小さなこの沈黙の束を、他人が見て触れて、どう思うのかはわからない。ただ自惚れではなく、自分にしか生み出せないものだなという自負はあった。
自分にしか生み出せないものは、自分の力だけでは生み出せない。この美しい矛盾に関わっているのが創造の神々。オリジナリティとは、自分だけは特別な存在だという相対的な世界ではなく、誰とも比較できない、誰にも奪われない絶対的な世界に起因する。つまり全ての人にオリジナリティがある。
だから他人と比べたり、自分を信じることを諦めてはいけない。
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