天使のような瞳で、肩に乗ってくるわ、頭に乗ってくるわで、とにかくなつっこくて、キラキラしていて、神気に満ちている。これはきっと化身。こんなことってあるんだな。
もしかしたら、無意識の方が意識より先に猫の鳴き声を聴いていて、連想して猫神さんのことを思い出していたのかも。どちらにしても無意識は宇宙と繋がっていて、世界は愛と不思議に満ちている。
引き取りたかったが、自宅はカムイがいるので難しい。カムイは生粋のハンター。これくらいの大きさの小動物を見ると、本能で襲う。厳しくしつけても、いつか見てないところで襲うだろう。
かといって見捨てるわけにはいかない。途方に暮れていたけど、とりあえず実家に頼んで預かってもらった。
話は猫と出会う前に戻る。
それから子猫に出逢った。
ある日、蛇が日向ぼっこをしていた場所の床が抜けて、そのことに気づいた。彼はきっとこの穴から、新しい世界へと飛び出したのだろう、光を求めて。
ターラ(tara)。
ある朝、すっと降りてきた言霊。taraはヒンドゥー語で「星」の意味があり、またチベット仏教におけるターラーとは眼睛(ひとみ)、救度(あらゆる苦しみから救うこと)の意味がある。
ターラー菩薩は、観音様の眼から放たれた、慈悲の光から生まれた仏様。
夏至の日に描いた子猫の瞳に、星の光が流れていたのは、そういうことだったのか。
そういえば、蛇を描いていたときに、なぜかチベット仏教の菩薩が頭から離れず、(救いを求めるように)資料を求めて図書館に行った。
そのとき必ず寄る場所が、図書館の横にある猫神さん。つまり蛇を描いていなければ、不思議なタイミングで子猫(慈悲の光)には出会っていなかった。
時系列にまとめてみよう。
蛇の絵を描きはじめる。
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蛇のような不思議な雲海を見た直後に大雨。
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家の下に大きな蛇が雨宿りしに来る。
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翌日その蛇が洗濯場でひなたぼっこ。見つめ合う。
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蛇の絵が白光しはじめる。
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やたらとチベット仏教が気になり、狂ったようにチベット密教音楽(マントラ)を聴き始める。
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チベットの菩薩が頭を離れない。資料を求めて、半年ぶりくらいに図書館に行く。
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図書館の横にある猫神さんに参拝。
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帰り道で子猫に出会う。
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洗濯場の床が抜ける。
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隣の空き地に、あの蛇の亡骸を発見。
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猫の絵を描く。
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ターラという言霊が降りてくる。
神格化されることはあっても、現実には蛇は忌み嫌われる。毒をもつ種があるので、生存本能としてはしかたないかもしれない。でも子猫はかわいい、蛇は気持ち悪い、という極端な分別は、人間が生物に勝手に押し付けている都合で、本質ではない。
あの蛇はとてもかわいい目をしていた。
そして子猫に生まれ変わった。観音様の涙の力で。
すべてが繋がっている。
でもすでに実家ではミィちゃんと呼ばれていたので、名前はミィちゃん。(笑)
名前は実際に飼ってる人がつけるもの。自然で呼びやすい方がいいに決まってる。
でも見えない世界での彼女の名前は、ターラ。観音様の涙であり、慈悲の光なのだ。
追記:古い土着信仰では、蛇の神様のことを巳さん(みぃさん)と呼ぶらしい。実家ではミィちゃん(巳ちゃん)と呼ばれているターラ。なにも知らない家人につけられていた名前、不思議と辻褄が合っている。