2011/06/26

ゴーヤーの花

ゴーヤーの黄色い花弁が強い風にもがれ、そのまま風に乗って、たまたま隣に置いてあったメダカの壺に落ちた。まるで一陣の風が飾り気のないメダカの壺を哀れんで、花を添えたふうに見えるこの瞬間とは、偶然に偶然が重なった瞬間を、さらに偶然に僕が目撃しただけのことで、いくら考えたところで、それ以上の理由などないはずなのだけど、なにか釈然としない。しっくりとこない。納得ができない。その一連の出来事に、見えない存在の意志が介在したような気がしてならない。

こんな些細なことが積み重なって、わからないことが、わからないままで手つかずでどんどん荒れ地になってしまう。意固地になっているつもりはないのだけど、一言で世の中ってそういうもんだよ、と簡単に言う人や、都合のよい解釈の宗教を持ち出す人もまた、信じられない。

生まれてすぐ息を引き取った赤子を抱く母親や、結婚式当日に不幸にも事故に合って式を迎えられなかった花嫁、そして震災で家族を失った人たちに、今ここに居るはずの人がいないということは、偶然に偶然が重なっただけで、意味などないんですよ。とはっきりとその人の目を見て言える人が、はたしているのだろうか。もちろん状況は違いすぎるくらいの差があって、抽象的な思考に酔っているのかもしれないのだけれど、話は逸れていないと思う。

芸術とはその答えを模索する心の動きの現れなのだと思う。水面に浮かんでいる、この偶然のゴーヤーの花のように。わけがわからないものをある角度から世間に知らせる、というシグナルのような役割。たまたまの出来事に内在している存在を、表に現す、術のこと。負荷のかかる世界を受け止めつつ、作品として変換する回路を鍛え、時流ではなく、時流の外に漂っているものを掴み取ること。すなわちそれは、どんなふうに生きていくかということを常に自分に問いかけていくということなのだと思う。




2011/06/20

アマリリス

ある夕刻、いつもの森に呼ばれたような気がした。しかもカメラを持ってこいと言う。
(困ったなあ、構えると、逃げるくせに)。そう思ったが、言うとおりにすることにした。さっきまでの大雨が嘘のように止んでいたが、すでに奧の空から宵闇が迫り始め、山々はもう、眠る準備を始めていた。


せっかくなので、入り口のお不動さんを綺麗にしてから、撮らせてもらった。この少し先に森の入り口がある。


森は睨みつけるような迫力で、ときおり日本刀のような銀色を撥ね、「来るなら切るぞ」と鞘に手をかけているように見えた。森に入る手前で、一枚だけ写真を撮らせてもらったが、受け入れられているような気はしなかった。なぜ呼びつけておきながら、はねっかえすような態度を取るのだろうかと、引き裂かれるような思いを抱えながら、滑らないように注意して石段を上がろうと足をかけたとき、左の視野の奥の方に、いつもとは違う色を感じた。それは遠目にもよくわかる赤い色だった。森が血を流していた。怪我をした。だから呼ばれたのだ。そう思った。僕はいったん森を出て、その傷口を確かめに行った。


           アマリリスだった。ああ、そういうことか、と納得した。結局、森には入らなかった。


2011/06/15

螢の火(ほのか)


螢が見えるとの噂を聞き、隣のおじいさんに場所を尋ねたところ、目の前の川で見えることがわかった。以来毎晩、螢の火(ほのか)を見ている。光が弱すぎて写真には映らないのだけど、この月下の暗闇には40~50の螢が蠢き合い、点滅している。螢を見ていると、いつも過去にタイムスリップしたような気持ちになる。夜光虫とわかっているのに、森の精霊が水遊びしているように心が見てしまい、先祖が戻ってきてくれたような気持ちにもなって、祈りを捧げているときのような粛々とした心の状態になってしまう。おそらくは研ぎ澄まされた五感と対象との間に起こった摩擦(または科学反応)のようなものによって、既に知っている情報の壁(意識)を飛び越えて、螢なんて知らなかった時代に心が勝手に歩み寄り、知覚の扉が開いたり閉まったりして、「あちらの世界」と「こちらの世界」を自由に行き来できるような、タガが外れた、時空の半開きの状態になっているのだと思う。

僕たちはいろんなことを知っている。しかし体験はときに「知っている」ことを軽く飛び越えて「知らない」世界に連れて行ってくれることがある。五感による外界への接触は、思いも寄らないタイミングで第六感というエネルギーの火花(スパーク)を生みだし、見えるものの中に、見えないものを内在させ、過去や未来へと続いているような、永遠という虚構を、それぞれの人たちの、それぞれの尺度で感じさせてくれる。こんなにおもしろいことは、他にはないと思う。

                              ★

生まれて初めて描いた油絵は、「螢の火(ほのか)」というタイトルだった。この絵は写実ではなく「創作」である。本当は螢などいもしないのに、「なんとなく」描いてしまった。改めてこの絵を見ていると、今、螢の火が外に広がっているので、過去と現在が繋がったような気がしてくる。螢の火が、太古の記憶のように見えたり、森の精霊のように思えたり、突然失なわれた多くの命が、生き残った私たちに向けて放った遺言のように感じたりするのは、そこに在るはずのないものを、私たちの脳が生み出している証なのだと思う。その生み出されるものには、どこか統一したイメージがある。みな考えることがバラバラなら、イメージもバラバラであるはずなのに。

もしも世界が決定論的自然観(神はサイコロを振らない)で支配されているならば、僕たちは今、まだ訪れていないはずの未来を、一分一秒毎に忠実に写実していることになる。未来が決まっているならば、なにかを生み出すという行為は、ただただ思い出すことと同じ意味なのかもしれない。こうやってわざわざ会いに来てくれて、個々に燻っている第六感の火を灯し、なんの見返りも求めずに道筋を思い出させてくれている魂の火に対して、唯一、残された者ができることは、五感をフルに生かして、丁重に彼らを現在に迎え入れ、鎮魂の歌を唄うことだけなのかもしれない。

2011/06/02

拝啓 高島野十郎様


もしあなたが生きていたなら、私はすぐにあなたに逢いに行き、断られることをわかった上で、弟子入りを志願して、今の私自身の心の拠り所のなさを慰めていたことでしょう。

でももしあなたが生きていたとしても、きっと私も世界も、あなたの存在を見つけることは困難だったのかもしれません。あなたはどこにでも咲いている路傍の草でありながら、同時に誰にもたどり着けないような高い山にしか咲かない、俗世から離れた一輪の孤高の花でもありました。

私もかつて、世捨て人であろうと望んだことがありました。すべてを失い、底辺で生きる人に触れ、共に在ろうと居座りました。しかしそこに居続けることができませんでした。世を捨てようという行為そのものの中に、強烈に世の中にしがみつこうとする自我を発見してしまったからです。それから私は自然だけを描くようになりました。なぜそうなったのかは、自分でもよくわかりません。あなたの言う通り、神が自分の中にあるのだとしたら、きっとその神が私の手を通して描かせたのでしょう。しかし私という自我が、その神の存在を知り、真理を本当に理解するには、今生では短すぎるように思えます。きっと死ぬ直前か、その後になって、わかることなのでしょう。

あなたは言いました。藝術は深さとか強さとかを取るべきではない。「諦」である。と。

あきらめの諦ではなく、「真理」という意味で用いられたこの諦(たい)という言葉に、私は自分を殺したあなたの、底知れぬ覚悟を感じてしまいます。徹底した写実によって明らかになるのは、月ではなく、闇。これは描こうとして描けるものではなく、あなたの献身と対象への慈愛によって、受け手である私たちが勝手に浮かべてしまった、実体のない陽炎のようなものです。私はその陽炎に「諦」を見ます。見ようとも見えないはずであるはずの、闇が、空気が、光が、涅槃が見えるのです。

あなたは死んでもなお、わたしたちと諦(真理)を結びつける手がかりとなってくれています。あなたは闇に迷って道を間違えないようにと、私を導いてくれる羅針盤であり、私の色眼鏡を外してくれる師のような存在であります。すでにあなたは私のすぐそばにいることは知っているのですが、改めて、私はあなたに会いに行こうと思います。

あなたがいない間に、世の色は少しだけ変わってしまったのかもしれません。私たちが自然の一部であるということを忘れてしまったツケが、今、あらゆる現象となって、私たちに問いかけています。あまりにも大すぎる犠牲も失ってしまいました。なにもかも失った人たちに、あなたという画家が居たことを教えたい。なにもかも失って、生きる意味を失ってしまったと思っている人たちの瞳に、あなたが愛した美しき日本の光景を写実する一筆の軌跡(奇跡)を映してもらいたいと思います。あなたの残してくれた曼荼羅によって、一人でも多くの人たちに万物に宿る霊性の存在に気づいてもらい、「生きているということそのものの中に、生きるという意味がある」ことを思い出して欲しいと願います。

あなたは言いました。「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事」と。

一陣の風が吹き消した、あまりにも大くの蝋燭から立ちのぼる煙は、狼煙(のろし)となって、残された私たちにメッセージを放ち続けています。そのメッセージの内容は、かつてあなたが言ったことと同じように思います。私たち一人一人の中にすでに備わっている仏性を取り戻すことによって、万物に宿る霊性に気づき、共にあるという実感を抱いて生きるということ。あなたが農民に配った蝋燭の炎は、時空を超え、今もなお私の中で燃え続けています。

敬具