2011/06/02

拝啓 高島野十郎様


もしあなたが生きていたなら、私はすぐにあなたに逢いに行き、断られることをわかった上で、弟子入りを志願して、今の私自身の心の拠り所のなさを慰めていたことでしょう。

でももしあなたが生きていたとしても、きっと私も世界も、あなたの存在を見つけることは困難だったのかもしれません。あなたはどこにでも咲いている路傍の草でありながら、同時に誰にもたどり着けないような高い山にしか咲かない、俗世から離れた一輪の孤高の花でもありました。

私もかつて、世捨て人であろうと望んだことがありました。すべてを失い、底辺で生きる人に触れ、共に在ろうと居座りました。しかしそこに居続けることができませんでした。世を捨てようという行為そのものの中に、強烈に世の中にしがみつこうとする自我を発見してしまったからです。それから私は自然だけを描くようになりました。なぜそうなったのかは、自分でもよくわかりません。あなたの言う通り、神が自分の中にあるのだとしたら、きっとその神が私の手を通して描かせたのでしょう。しかし私という自我が、その神の存在を知り、真理を本当に理解するには、今生では短すぎるように思えます。きっと死ぬ直前か、その後になって、わかることなのでしょう。

あなたは言いました。藝術は深さとか強さとかを取るべきではない。「諦」である。と。

あきらめの諦ではなく、「真理」という意味で用いられたこの諦(たい)という言葉に、私は自分を殺したあなたの、底知れぬ覚悟を感じてしまいます。徹底した写実によって明らかになるのは、月ではなく、闇。これは描こうとして描けるものではなく、あなたの献身と対象への慈愛によって、受け手である私たちが勝手に浮かべてしまった、実体のない陽炎のようなものです。私はその陽炎に「諦」を見ます。見ようとも見えないはずであるはずの、闇が、空気が、光が、涅槃が見えるのです。

あなたは死んでもなお、わたしたちと諦(真理)を結びつける手がかりとなってくれています。あなたは闇に迷って道を間違えないようにと、私を導いてくれる羅針盤であり、私の色眼鏡を外してくれる師のような存在であります。すでにあなたは私のすぐそばにいることは知っているのですが、改めて、私はあなたに会いに行こうと思います。

あなたがいない間に、世の色は少しだけ変わってしまったのかもしれません。私たちが自然の一部であるということを忘れてしまったツケが、今、あらゆる現象となって、私たちに問いかけています。あまりにも大すぎる犠牲も失ってしまいました。なにもかも失った人たちに、あなたという画家が居たことを教えたい。なにもかも失って、生きる意味を失ってしまったと思っている人たちの瞳に、あなたが愛した美しき日本の光景を写実する一筆の軌跡(奇跡)を映してもらいたいと思います。あなたの残してくれた曼荼羅によって、一人でも多くの人たちに万物に宿る霊性の存在に気づいてもらい、「生きているということそのものの中に、生きるという意味がある」ことを思い出して欲しいと願います。

あなたは言いました。「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事」と。

一陣の風が吹き消した、あまりにも大くの蝋燭から立ちのぼる煙は、狼煙(のろし)となって、残された私たちにメッセージを放ち続けています。そのメッセージの内容は、かつてあなたが言ったことと同じように思います。私たち一人一人の中にすでに備わっている仏性を取り戻すことによって、万物に宿る霊性に気づき、共にあるという実感を抱いて生きるということ。あなたが農民に配った蝋燭の炎は、時空を超え、今もなお私の中で燃え続けています。

敬具


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