はじめて読んだのは美大に入学してすぐのころだったと記憶している。タイトルだけは心に残っていて、その内容を忘れてしまっていたのだけど、冒頭の「私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた」で始まる作者の懺悔のような独白から、「君」と呼ばれる画家志望の青年の複雑な心境を一瞬で伝える「どうでしょう。それなんかはくだらない出来
そして読み終えてしばらくしたあと、ある極私的な記憶が蘇ってきた。それは奇妙な偶然の一致の記憶だった。そして今になって唐突に思い出したその記憶のことを考えているうちに、そのときにはわからなかった、その偶然の一致の意味が解けた。自分にとってはとても大きな問題なのだけど、あまりにも極私的なことなのでここで言葉にして昇華するのは逡巡するのだけど、たしかに、たしかに、解けたのだ。それはようするに、その記憶とこの本の内容が、なんの関係もないように見えるのだけど、実のところ本人にはうまく把握できないような複雑な経路で絡み合いながら繋がっていて、「ふと」思いだす。という直観という形を借りて、そのほぐれが解けていったのだと思う。読中の妙なざわめきは、その糸が複雑な回路を辿るときに生じた胸騒ぎだったのだろう。
ふと思い出す、というのは、きっかけが必要だと思う。そのきっかけとは、直観という名前を借りているけど、その正体とタイミングはあらかじめ決まっていたような確かなもので、化学反応のような必然なのだと思う。その直観の火花が、潜在意識が淡々と流れていく日常から丁寧に拾い集めていた情報や言葉でできた、大きくて燃えやすい知識の無秩序な束に、火をつける。そして野火のように風を受けて広がった炎は、顕在意識に気づきを与えたうえで、脳内を焼け野原にしてくれる。野火は知らず知らずに溜まっていた洗脳をも焦がし、まさにこれから、という芽が広がろうとする、肥えた畑と可能性の種を与えてくれているような気がする。
この小説を始めて読んだあのときには、微塵も想像すらできなかったであろうことが、現実に広がっている。その現実の有り様そのものが、「きっかけ」の正体であり、タイミングなのだと思う。
すべてをなげうって芸術家になったらいいだろうとは君に勧めなかった。と述べる作者は、最後に「君」の背中を押さなかった理由をこう述べている。
「それを君に勧めるものは君自身ばかりだ。君がただひとりで忍ばなければならない煩悶--
背中を押したその先が、生である保証はまったくない。むしろ、そうでないことの方が多いのだろうと作者は考える。そう考える冷静と刹那が、苦の中にこそ生があるという尊厳の細部を、漁民の生き様をしつこいくらいに描写するという形で試みているが、その試みが逆に、この小説全体に宿る、懺悔のような、祈りの気配を際だたせ、すっきりとした読後感や、単純な答えを拒んでいるように思える。現実には作者である有島武郎はモデルとなっている木田金治郎に、上京して絵の勉強をしようとするのを制して、故郷(北海道岩内)に留まって描き続けなさいと助言をしている、そういう事実もまた、興味深いものがある。
その夜、寝支度をしていたら、大きな虫の音が聞こえはじめた。やけに近いなあと音を辿っていたら、洗濯場に一匹の鈴虫がいた。毎晩聴いているはずなのに、そのときだけは特別な音色のように聞こえた。いつもとは違う心の在り方が、聴覚を狂わせたのだ。それはまるであの世からの呼び鈴のようだった。あの世とこの世が、すれ違ったような気がしていた。
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