2012/07/13

ある作家さんの画集


ひどく湿気た長雨の昼下がり、発注していたある作家さんの画集が届いた。ずいぶんまえに存在を知って、とても心に残っていた作家さんなのだけど、なぜだか風のように通り過ぎたまま、もう忘れてしまったように思っていた。それが今年に入ってふと思い出し、それからずっと心に留まってしまった。その理由は、自分でもよくわかっている。自然になりたかった彼が制作のために登った谷川岳で遭難して、帰らぬ人となったのが、今の自分と同じ年だったから。だから僕は無意識で待っていたのだと思う。かっこつけるつもりはないし、ひじょうに僭越なのだけど、こう言いたい気持ちが僕にはある。

どうぞご自由に僕の躰をお使いください。

「行ってくるよ」と寝室のドアを細く開け、すまなそうな笑顔を残し出発したあの日から、もう22年になります。2010年犬塚陽子(犬塚勉作品集あとがきより抜粋)


                         「林の方へ」犬塚勉 P30号/1985年/板にアクリル©Tsutomu Inuzuka



2012/07/09

さよなら手袋

今日は午後から畑の草むしりと盛り土を作った。硬くなった土をほぐし、森の土を少し持ってきて、灰と乾燥させた生ゴミをブレンド、分葱とツルムラサキとエンドウ豆の苗を植えてキャベツと赤大根の種をまいた。

なんとなく、手袋をしなかった。

草や土の触感(質感)を直に感じたいと、意識(光)できていない意識(影)の力が自分に働きかけたせいだと思う。雑草の根が固くなった土の中からメリメリっと抜けていく音、固い土を桑で叩く振動。指から腕に伝わってくる感じをできるだけ邪魔者なしにダイレクトに感じたい。だから手袋を拒否したのだ。また草をむしるとき。はっきり言って草むしりに罪悪感などこれっぽっちも感じるほど僕の神経は繊細にできていない。だけどそれでも、ふと考えることはたしかにある。メリメリメリメリと聞こえる名もなき植物たちの悲鳴。それが快感に変容する。死んでいくものに生かされている日々。それを素手で受け取るのが、せめてもの礼儀だと思っていたのかもしれない。土も直に触れた方が気持ちよい。爪の間に土が入ろうが、毛虫に指を刺されようが、ミミズを握ってしまおうが、まったくもって、それがどうしただ。

植えた苗や種は近くの市場で買ったものだ。種は日本の業者の名前だったが、苗はわからない。「もしかしたらモンサントの種かもしれない」そう思いながら、植えた。自然種を求めればいいのだけど、僕の今の心のバランスは、普通に市場で種と苗を買うことを選択していた。こういうとき、心にひっかかりが残る。残尿感と言うのか。原発以後の電気を使うときの、あの一瞬訪れる複雑な気持ちと同じだ。自分が敵であり、悪と見なして対峙している対象に、じつは自分が手を貸していないかという心配。対峙しているのが自分であり、見ているのは鏡だったという目眩にも似た焦燥感、共命鳥(ぐみょうちょう)。


このひっかかりを育てることに、人生の興味がある。いきなりひっくり返したように変わる生活や物事や言動のまやかしではなく、気がついたらひっくり返っていたという魔法に近づきたい。その力学、方程式と絡み合いたい。心の底にひっかかっている集合無意識の種が育った大地が、2001年宇宙の旅のような顕在意識の想像できうるものではなく、可視化を拒むほんとうの未来の姿なのだと思う。だから現世とは未来の鏡映しであり、原風景なのかもしれない。母親の羊水の中で見ていた夢。三面鏡の合わせ鏡が古来から畏れられるのは、無限に続く自分を畏れるからであり、それはありのままの自然への畏れと、同じ気配。

だから「さよなら手袋」。




2012/07/06

きみの道



きみがのぼる山

百年あたりまえ 千年なつかしく 万年ふりかえれ

歩いても歩いてもここ 歩いても歩いてもここ それがどうした?

きみが飛んでいる空 

百年あたりまえ 千年なつかしみ 万年ひるがえれ

飛んでも飛んでもここ 飛んでも飛んでもここ だからなんだって?

きみがおよいでる海

百年あたりまえ 千年なつかしく 万年ターンして

およいでもおよいでも今 およいでもおよいでも今 あはははは

ふりむいたその先 ひるがえったその羽根 生の躍動 リズム

きみのちから

まなざし

えいえん

海と山 あしもとにある

しらなかっただろ?





2012/07/03

求愛のダンス

蜘蛛の糸に足を取られた一匹のアゲハを、もう一匹のアゲハがまわりを飛び回って糸を切り、救出する現場に遭遇した。


 
最初は夫婦か親子かと思って普通に感動していたのだけど、しばらく時間が経って振り返ってみると、もしかしたら二匹は「たまたま出会っただけ」なのではないかと考えるようになってきた。言い方を変えれば「助けるという意思はなくとも、その本能が助けるという結果を導いた」ということ。蜘蛛の糸はアゲハの目には見えないと思う。だとしたら、もう一匹のアゲハにも見えなかったはず。ただただ求愛のダンスが相手の命を救った。それがこの救出の真実だったとしても、そうでなかったとしても、二匹のアゲハはわたしたちの目には美しい救出劇に映り、その姿には暗い陰りのなかに身を隠している本能に訴えかける、やわらかくて強い陽射しがある。

そのように考えていたら、いつかやがて忘れてしまうような人目をひくだけの感動を越えて、二匹のアゲハが、心の深い場所に沈みこみ、羽ばたきはじめた。ここでやっと、僕は本当にアゲハという存在に出遭えたのかもしれない。そんなふうに思った。 救出劇に動くだけの心では、まだ存在とは出遭っていない。揺れ動く表層の心の奥の奥、暗い場所にうすら静かに灯るような、かすかな陰影こそ、自己愛と浮き世を超えた存在との出逢いではないだろうか。そのような存在は、何度も繰り返し、時空を超えてさえ、表に現れる。それが流離えど移ろえどのありのままの世界の表現。人として、それが無常を生きることの喜びであり、安らぎになり得るのではないだろうか。
命がけの求愛のダンスが、蜘蛛の糸を断ち切った。この事実は、人類さえ始まっていない、はるか遠いむかしにも繰り返されてきたはずだから。

                          
たまたまそう見える、という意味を見つめて、その源泉を求めるとき、眼に見えない力の関与を外的世界に見出さずにはいられない。

その小さな生命は、沈黙の力で人間の思考そのものに内在している生命力を引き出している。ありのままの自然は、つねに新しい出逢いを提供してくれている。その出逢いを可能にするのは、開かれている感覚世界と内なる力を結びつける思考の自由だと思う。