蜘蛛の糸に足を取られた一匹のアゲハを、もう一匹のアゲハがまわりを飛び回って糸を切り、救出する現場に遭遇した。
最初は夫婦か親子かと思って普通に感動していたのだけど、しばらく時間が経って振り返ってみると、もしかしたら二匹は「たまたま出会っただけ」なのではないかと考えるようになってきた。言い方を変えれば「助けるという意思はなくとも、その本能が助けるという結果を導いた」ということ。蜘蛛の糸はアゲハの目には見えないと思う。だとしたら、もう一匹のアゲハにも見えなかったはず。ただただ求愛のダンスが相手の命を救った。それがこの救出の真実だったとしても、そうでなかったとしても、二匹のアゲハはわたしたちの目には美しい救出劇に映り、その姿には暗い陰りのなかに身を隠している本能に訴えかける、やわらかくて強い陽射しがある。
そのように考えていたら、いつかやがて忘れてしまうような人目をひくだけの感動を越えて、二匹のアゲハが、心の深い場所に沈みこみ、羽ばたきはじめた。ここでやっと、僕は本当にアゲハという存在に出遭えたのかもしれない。そんなふうに思った。 救出劇に動くだけの心では、まだ存在とは出遭っていない。揺れ動く表層の心の奥の奥、暗い場所にうすら静かに灯るような、かすかな陰影こそ、自己愛と浮き世を超えた存在との出逢いではないだろうか。そのような存在は、何度も繰り返し、時空を超えてさえ、表に現れる。それが流離えど移ろえどのありのままの世界の表現。人として、それが無常を生きることの喜びであり、安らぎになり得るのではないだろうか。
命がけの求愛のダンスが、蜘蛛の糸を断ち切った。この事実は、人類さえ始まっていない、はるか遠いむかしにも繰り返されてきたはずだから。
たまたまそう見える、という意味を見つめて、その源泉を求めるとき、眼に見えない力の関与を外的世界に見出さずにはいられない。
その小さな生命は、沈黙の力で人間の思考そのものに内在している生命力を引き出している。ありのままの自然は、つねに新しい出逢いを提供してくれている。その出逢いを可能にするのは、開かれている感覚世界と内なる力を結びつける思考の自由だと思う。
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