2012/10/24

幽谷響(やまひこ)

家の近くでトンネル工事が始まった。杉の木がなぎ倒されて、山肌の一部が伐採された。その工事のために、猩々の森(勝手に名付けた秘密の森)へと続く山道が消えた。むき出しになった山肌や、転がった無数の杉の木を見ながら、いろんなことを考えていた。もし自分が地元住民の声を聞く立場だったら、もし自分がここの工事を請け負った土建屋さんだったとしたら、もし自分がトンネルの向こうの部落で暮らしていたとしたら、もし自分が森の精霊だったとしたら。自分は流れ者だし、ここに住みはじめた時点からすでに工事は着工されていたし、トンネルができれば便利になることは、実感としてわかる。だから偉そうなことは言えない。でもいろんなことを巡るように考えたあと、溜息のように、こう思った。「このような景色は、できるかぎり見たくない」と。



世の中にはふたつの世界があるような気がしている。そのふたつの世界は、けして交わることはない。だけど、寄り添うように同時に流れていて、いつもどこかで、干渉しあっている。豊かさとはなんぞやと、このむき出しの山肌は、自分に問いかけているように思えた。《答えてみろ》と、幽谷響の声
が聞こえた。




2012/10/19

異株同根

ずいぶん前から、背伸びをしてゲーテの色彩論とダヴィンチの手記という大作を読んでいる。どちらもひじょうに難解で、後戻りして読み返すのでページが先に進まない。もともと読むのがひどく遅いのだけど、この二冊は、さらにさらに牛歩の歩み、一日五行くらいしか進まないことが頻繁にあり、霞の千里のような見通しに、絶望を抱き、自分の小ささを感じている。しかも何度読み返しても、なにが言いたいのか結局よくわからず、ちょっとずつ、しかたなく栞を前に進めているという口惜しい状況なのだ。でも読んだつもりにだけはなりたくないという気持ちがある。ちゃんと自分の頭で咀嚼したうえで「やっぱりわかりませんでした」と二人の前でひざまずきたい。これが僕なりの矜持だ。
 
だけどこの二つの著書はひじょうによく似ている。このことは僕のリアリティなのだから、自信を持って言うことができる。ダヴィンチが色彩論、ゲーテが手記と言われても、まったく違和感がないし、どちらが書いたものか、読んでいてよくわからなくなる。これは二人は同じ井戸を掘っていて、同じくらいの深さにいるからだと思う。これに似た気持ちを、キースジャレットとグレングールドの弾くバッハを聴き比べていたときに感じたことがある。どちらが弾いているのかよくわからず、聞けば聞くほど、差異はなくなり、そのような興味を打ち消すほどに、ようするに、キースでもグールドでもなく、どちらも、バッハだったのだ。

まったく違う人生を歩んでいるつもりでも、まったく違う井戸を掘り進んでいるつもりでも、同じくらいの深さなら、その二人は、出逢っているのかもしれない。そういう現象(phenomena)、または出逢いを、読み手であり、聴き手である自分は、じっと見つめているのではないのだろうか。そういうふうに考えるようになった。だとしたら、二つの著書、二人の巨匠、そして二人の音楽家が伝えているのは「人生は、君の想像をはるかに超えて、豊かになれる」という、可能性(横穴)のことなのかもしれない。そう思うと、難解で、読みにくく、簡単にはわからないこと、そして二人の差異はなく、そもそも比べるモノではないという予感に、合点がいくのだ。
 
                            ★
 
写真は太龍寺で見た異株同根という珍しい根っこ。杉と檜の根が長い年月を経て、まるで申し合わせたかのように一緒になっている。
 
 
 

2012/10/11

聖マタイの召命

カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio)の「聖マタイの召命」。ユダヤの人々から税を徴収する取税人マタイに向かって、イエスがついて来なさい、と声をかけるシーンを描いた傑作。 最近になって画面左端のうなだれる男が聖マタイであると位置付けられてきたけど、それまでは自分に指を向けている髭を生やした初老の男だと言われていて、そのように説明され、信じられてきた。いまもなお、初老の男だと疑ってやまない人たちが大勢いて、この絵を飾っている教会の神父さんも、いまだ理解を崩していない。でもこの絵画の生命線である、召命するキリストの目と指の先が、初老の人を通り過ぎているのはなぜだろうか。

うなだれた男は、まだキリストの存在にも召命にも気づいておらず、だから目立たず、金勘定に没頭して、世俗の影を帯びている。カラバァッジョはこれから陽の当たる、その改心と大いなる気づきの予感の塊を描いたわけで、光が当たっている場所だけを見ていると、その真意には気づくことができない。思いこみが、空間(キリストの視線と指の先)をねじ曲げてしまうから。

先入観というものは、その判断をなににゆだねているかによって、それそのもののの持つ生の力、存在の理由を破壊することがあると思う。外部要因に依存しているか(絵を見る前に、横に書いてある説明書きを読まずにはいられない感覚、不安の裏返し)、内的要因に依存しているか(受け取ったそのままの感覚を信じようとする直線的な力、本能)、常にその両方の感覚をバランスよく整理するか(自分すら俯瞰する視点の獲得へ)。なにより恐ろしいのは、思いこみによって世界がねじ曲がり、もとに戻せなくなることだと思う。スポットを浴びている世界だけではなく、その影を帯びて見えにくくなっている現象にこそ、美しさが宿っていて、そのことを人間が人間に対して暗示できるのが、芸術なのだと思う。それはただの綺麗事や、自分の立場を正当化するための正義、肯定や否定の力学だけでは計りきれない、なにもかも見通した恐るべき狂気の世界でもあり、言い換えれば、人間の限界を示しているのかもしれない。でもその哀しみや絶望のなかに、果てのない無限の宇宙の種を蒔くような、そのようなことは、学にはできないことだと思う。