森のなかで、黒い男に出逢った。もちろん一人でここに来たはずで、まわりには誰もいないし、自分の影でもない。頭から足の先まで全身まっくろけで、見たと同時に、ふっと消えて、あとには杉の大木が、木漏れ日を浴びて立っているだけだった。男に心当たりがなかったので、山を下りてから、三人の賢者にそのときの状況を詳しく話して「あの男は誰だったのか教えてほしい」と願いでた。
一人目の賢者は、いかにも清潔で身なりもよく、ネクタイをぴりっとしめて「よしわかった」とメガネに手をそえながら、カバンからノートパソコンを取り出して、残像処理能力と錯視と幻覚のメカニズムについて詳しく教えてくれた。
二人目の賢者は、いかにも荘厳で身なりもよく、さまざまな装飾を身につけて「よしわかった」とカバンから経典のようなものを取り出して、地縛霊についてのことを話し、最後にまじないのようなものを言いながら、水のしぶきをかけられた。
一人目の賢者は、いかにも清潔で身なりもよく、ネクタイをぴりっとしめて「よしわかった」とメガネに手をそえながら、カバンからノートパソコンを取り出して、残像処理能力と錯視と幻覚のメカニズムについて詳しく教えてくれた。
二人目の賢者は、いかにも荘厳で身なりもよく、さまざまな装飾を身につけて「よしわかった」とカバンから経典のようなものを取り出して、地縛霊についてのことを話し、最後にまじないのようなものを言いながら、水のしぶきをかけられた。
三人目の賢者は、ついさっきまで山仕事をしていたような、よごれた身なりで、だけども眼の奥には光るものがあって、頭をもしゃもしゃとかきながら「そりゃあ君のことだから、僕にはわからんよ」とだけ言った。
問いかけにきちんと答えてくれたのは、三人目の賢者だけのような気がしたので、礼を言おうとしたら、彼はひじょうに聞き取りにくい独り言のような小声で、こうつけくわえた。
「だけどもその話はなんとも気になるねえ。そりゃあ、そういう摩訶不思議なものに出逢うことだってあるだろうよ。君が歩いていたのは森ではなくて、実際のところ、君自身の、底が知れない記憶の森のなかとも言えるのだからね。たとえば君がものすごく腹が立つことをされて、誰かを怒鳴るとするだろう?すると怒っている君のどこかに『ああ、俺はいま、怒っているなあ』としみじみと観察している君もいるだろう? だからきりのいいところで怒りはおさまるんだ。二人いるんだよ。君は。観察されている君と、観察する君。そいつらがなにかのひょうしであべこべになってしまうとどうだね? 君はそのとき、見えていないものを見ているという矛盾に立ちはしないかね?」
わかったようなわからないような心持ちの僕を見透かして、三人目の賢者はこう続けた。
「するってえと、出逢ったのは未来の君自身かもしれないし、そのとき君のことをたいへんに心配してくれていた人かもしれないし、大昔にその森を切り開いた人なのかもしれない。どっちにしろ、僕には君の頭のなかを開いて確かめることはできないからねえ。もうしわけないけど、こう答えるのがせいいっぱいだよ」
それだけ言うと去っていった。森で出逢ったのは、彼のような気がした。