最近は森にいりびたっている。お隣の樋口のじいさんから好きにしていいと言われた山で、じつはかなりの急斜面。こういう手つかずの斜面を登っているとき、変な気持ちに襲われる。踏み出した足元は、いつ崩れるかわからない。おもわず握りしめた木の枝は、いつ折れるやもしれない。環境が第三者に確かめられていない以上は、全体的に未知で、混沌としていて、ちょっとおおげさな言い方だけど、不確定な未来のミニチュア。それでもなぜか、登れる。だからこそ、登れる。ここにちょっと不思議を感じる。確かめてたぐり寄せたいような、感情がある。一度軽く転落をしたことはあるのだけど、それを経験として生かしながらも、登るしかないから、登れるというのか、興奮するから、前に行けるというのか。実際に足元が崩れて滑ったり、枝が折れたりするわけだけど、とっさに身体が反応して、致命的ではない場所にすみやかに肉体の部位が動いて、その動作を、まるで身体の芯が音楽でも奏でているかのように、リズミカルに、自分の内側から響いてくる音楽として、信じて、従っているから、登れているのだと思う。言い換えれば、山との呼応を信じている、ということなのかもしれない。
さらに考えてみると、森に対応して、自分の中で自然発生した音符のようなエネルギーを、登るリズムとして成立させている指揮棒(tact)が、自分のどこかにあるはず。その指揮棒とは、そのまま人生を奏でているとも言えるのではないだろうか。なつかしい過去や、苦い経験や、苦渋の選択のなかに沈んだ地下の泉から、未来から今に向かって、たしかに聞こえてくる音楽のようなものがあって、それが生きるという旋律なのではないだろうか。答えはでないのだけど、そんなふうなことを、ぼんやりと考えていた。
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やっと、てっぺん付近の開けた場所まで、道標の補助ロープをくくり終わって、期待以上に登り降りが楽になった。開けた場所を散策していたら、人の手で築いた石段の名残りと、杉と共存している竹林があって、若竹の新緑に心がなごんだ。土砂崩れの可能性をぬぐえない急斜面じゃなかったら、ここに家を建てたいと思ったろう。このへんにハンモックをつけて、昼寝や読書をしようかと考えている。
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