我心
突然やってきた犬(空)が、川ではしゃいでいるのを見ていると、それだけで自分まで解放されたような、無私の気持ちになる。たぶんそれは、自分と捨て犬との接点が、曖昧になっているからだと思う。拾ったのか、拾われたのか、飼っているのか、飼われているのか、捨てたのか、捨てられたのか、西行が「いかにかすべき我心」と悩み続けた我心(わがこころ)が、いったいこの世界のどこにあるのか、よくわからなくなる。
だけどいまこの川を流れている水や、雨粒は、まぎれもなく、あのとき東日本を襲った水であり、これから原子炉を冷やす水であり、あのとき飲んだ水であり、これから飲む水。そのことさえ忘れなければ、犬との戯れの接点においても、はしゃいではいられない人たちの心と、死者の魂を抱きしめることができる。その肉体を超越した抱擁が、さまよえる、いかにかすべき我心の、ベクトルではないだろうか。自分と戯れるくらいなら、犬と戯れて、自分と戦う。
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