2014/03/16

月と六ペンス


モームの月と六ペンスを読む。

40才で株式仲買人から画業に専心した、ゴーギャンにインスパイヤされて創作された小説。心が渇いていたのか、水を飲むように読みやすかった。世俗的な成功や常識に捕らわれない鬼火。火宅の人。

芸術における魔性のこと。ただ、泣く女を描いたピカソよりも、妻のカミーユを亡くしてから、人物画を描かなくなった(描けなくなった)モネの方が、僕は美しいと思う。実際、二人の原画を見たことがあるけど、心を動かされたのはモネ。絵は正直だと思う。

大雨に散る梅の花を見つめていると、見ているモノと見られているモノの真空に、なんとも言えない妖しみや直観が落ちている。もののあはれ。そういうものを静かにすくいとって、別の空間に再現してくれるのが、芸術だと思う。だからこそ、真意に届かぬという憂いに、作り手は苛まれる。

『この世界でもっとも貴重な美というものが、まるで浜辺の石ころみたいに、ぼんやりと通りがかった人が、遊び半分に拾えるようにころがっているなどと、きみはどうして考えるのだろうか。美はすばらしいもの、ふしぎなもので、芸術家が、魂の苦悶のうちに世界の混沌から作り出してくるものなのだ。
そして、それが創り出されても、すべての人間にそれがわかるということにはならないのだ。それを認識するには、その芸術家の冒険をくりかえさなければならない。それは、芸術家が歌ってくれるひとつの旋律であって、それをふたたび自分の心の中で聞くには、こちらにも知識と感性と想像力とが必要になってくるのだ』月と六ペンス

『私は見るために、目を閉じる』ポール・ゴーギャン
"I shut my eyes in order to see." Paul Gauguin

ゴーギャンの大作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」。図録からでも漂ってくるこの絵の不思議は、なんだろうなと思う。記憶というのか、夢というのか。曼荼羅のような、楽園への誘いがある。

西洋文明に絶望したゴーギャンは旅にでるが、追い求めた楽園はどこにもなく、その憤りこそが絵画へのモチベーションだった。画家はこの絵を一ヶ月で一気呵成に描きあげたあと、砒素による自死に失敗してしまう。大作に描かれたのは、彼の目には見えていた楽園の権現であり、冥界なのだと思う。ゴッホやゴーギャンの絵には熱がある。見ていると、ちょっとけだるい感じになる。いやな感じではなくて、お酒を飲んだような、知恵熱で、頭がぼおっとしているような、それでいて気持ちのよい酩酊があり、その浮遊感が、描かれた風景に、そのままずっと続いていくような永遠と安らぎを与えている。

楽園はどこにあるのだろうか。

そのような哲学的な問いに対して、ゴーギャンは人生を賭して答えた。見るために目を閉じる。それは現実にはないから、目をふさいで白昼夢を見ることではなくて、いまここにある現実を、背後に潜んでいるものをあらわにするまなざしを持って貫き、見通すことだと思う。
 




 

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