2014/04/17

月蝕

右手を負傷。その日は月蝕だった。

絵筆を握れないのはつらい。毎日していることが、突然できなくなると、なにをしていいのか、最初はとまどってしまう。ふだん、どれだけ右手(利き腕)に依存していたか、よくわかる。

左手の生活は、細かいことがむずかしい。歯磨きや食事。それでも、しかたがないなと割り切ってしまえば、新鮮で、工夫する楽しさがある。じたばたしても、どうしようもないのだから、憤りや義務感のようなものからは、解放されている。不自由という自由、禅的生活を、獲得しているのだと思う。言い方を変えると、いままでいつも脇役だった、左手の夢を叶えている大切なひととき。左手はさぞかし、嬉しかろうと思う。

右手を怪我したその日、一ヶ所だけどうしても血が止まらない傷があって、縫うほどでもないのだけど、いくら抑えても止まらない。寝るときに布団が汚れるのはいやだなあというのがあって、すぐ近くのわりと大きな病院に行ったら、受付でいま休診時間なんです。と言われて、別の病院を紹介された。止まらないので
血のついたタオルをまいていたけど、こちらの状態を目視確認することもなく、矢継ぎ早に別の病院を紹介されたので、もう、いいや、と思った。腹が立ったというわけではなくて、来るんじゃなかったと自分に後悔した。(天から)自分でなんとかしろ、と言われているのだと思った。

クイックパッドという止血テープを貼って、今はなんとか止まってくれたが、昨日の朝からパンパンに手が腫れてきて、右手が石のように固まったので、もしや、と思って、固まった指の間に、鉛筆をすっと差しこんだら、ぴったりはまる。油絵は無理だけど、手首を曲げないで波のように陰翳をつける素描(スケッチ)なら、鉛筆と手が固定さえされれば、腕の動きだけで絵が描ける。さっそく弥勒菩薩象を写仏した。

すこしの時間でも、仏を描ければ、左手の夢を叶えた一日は、安らかに成仏してくれる。仏さまは生きているのでも、死んでいるのでもなく、永遠かと言われれば、そうでもない。生とも死とも、どちらともつかず、私たちの罪や願いを一心に背負ってくれていて、ただただ其処にある神性であり、証。そのような時空にアクセスするには、ある儀式や整えは必要だと思う。自分にとってはそれは描くこと。祈りのことだと思う。

月蝕の傷は、左手を解放してくれた。

左手のピアニストや左足の画家もいる。たとえどんな過酷な状況においても、人はなにかを言わんと欲する。だから見るものは、試されているのだと思う。そこまでして、表現されていくものと、真摯に向かい合うことによって、世界の見え方や人生だって変わることだってある。


 

追記 2013.4/23
 
右手が使えるようになった。

勝手なもので、回復してしまうと、すこしさみしい。もうすこし左手の自由を楽しみたかった。不自由の自由。自由とは。

夜、眠るとき、肉体が束縛されるからこそ、夢を見る。暗闇は、目を奪うかわりに、耳や肌に創造力を与える。使い慣れたひとつの感覚が束縛されると、別の感覚がその仕事を補うように機能してくれる。不自由の自由は、当たり前だった日常に驚きと新鮮さをもたらしてくれた。

静かな夜の夢が、時空や理解をかるく飛び超えて、あのように自由なのだから、精神が持つ潜在能力とは、もはや人類の手に負えない恐るべき躍動だと思う。それを束縛しなければならないからこそ、肉体があると考えると、異界への扉は、感覚を通して、どこにだって開かれる。即ち、不自由だからこそ、自由がある。

なにもかも奪うような、暗黒の夜空に、美しい月が輝き、いくつもの星たちが瞬いている。それだけで、もののあはれが目前に迫ってくる。わたしたち一人一人は、あのような星のようなものなのかもしれないね、とでも、誰かに言いたくなる。明るくなると、見えなくなる。でも暗くなると、見える。

しばらく座らない間に、カムイがイーゼルの前に、居座るようになってしまった。

昨晩は絨毯をガリガリひっかいて、穴を掘るしぐさをしていた。寝床を確保しようとする動物の本能らしい。時間が止まった絵の前で穴を掘り、眠ろうとする黒い影。この構図は、なにかを暗示しているように思える。いやな感じではなく、とても優しくて、幸せな感じだ。
  
 
 
 
 

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