2014/08/29

混沌と秩序



手つかずの森のなかにいると、そこはかとなさに包まれる。所在や理由がはっきりしないけど、なんとなく距離や空間のないものを感じられる。「そこはかとなさ」には、あらゆる要素が、まだはっきりしない未段階のまま、詰まっている。

そこから観察者がある要素を抜き取ると、自然はそのように変身する。キラキラしていて綺麗だなと思えば、そうなるし、やばいなと感じれば、そのような顔をしている。いかようにも変化する。

それは鏡のようにある側面を映しているにすぎないわけで、どのようにでも変容する、そのはっきりしない未段階に、興味がある。そういうものをはたして「視る」ことは可能だろうか。観測者が対象からなにかを引きだそうとしていなくても、混沌はありのままでエネルギーを発している。そこに畏れを感じて敬いの姿勢で佇んでいると、透明な風が体を通過する。しだいに外的世界と内的世界の区別が曖昧になって、それなのに、絶妙なバランスが感覚として立ちあがる。混沌(カオス)のなかに秩序(コスモス)を見ているのだろうと思う。

自然の方から訴えかけてくるものが、どのようにして自分に達しているのだろうか。視覚器官(目に映るもの)とは違う回路で、自然はこちらに流れている。自然への通路は、感覚によってのみ開かれる。

『人間の頭脳に対しては、自然は永遠に沈黙している。画家は、このことに最も辛抱強く耐えうる者でなくてはならない』前田英樹「セザンヌ 画家のメチエ」より

2014/08/19

回想のセザンヌ


              セザンヌ「ジョワシャン・ガスケの肖像」1896-97年
 
ベルナールの「回想のセザンヌ」を読み終えた。

ガスケの本もよかったけど、こちらもおもしろかった。読んでいるとすごく絵が浮かぶ。セザンヌがいた風景、その背中。空気。彼は写生の道中で、悪童どもにバカにされ、石を投げられた。サロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは、晩年。有名なサント・ヴィクトワール山と大松の絵は、当時の会場の扉口の上にかけられて、笑いものにされた。セザンヌは自分の芸術が世間に全く理解されないことに深く意気消沈していた。「絵を描きながら死のうと自らに誓いました」とはベルナール宛書簡。ある日の写生で突然の雷雨に襲われて、彼は昏倒する。

さんざん笑いものにしておいて、本人がいなくなってから近代絵画の父と呼ぶアカデミズムって、何様だろうか。

セザンヌの肖像画を見ていると、人間も自然の一部であることがよく伝わってくる。ヒトとモノが、エネルギー(気)の流れとして、踊るように画面に調和している。サント・ヴィクトワール山は、彼に選ばれてうれしかった。喜んでいる。それがよくわかる。見たことも聞いたこともない山だけど、そのことを、いまここにいて確信できる。

セザンヌが近代絵画の父と言われているのは、キュビズムがあったからだと思う。彼の「自然は、円球、円錐、円筒、で出来ている」という言葉は有名だけど、キュビズムとは戦略でありコンセプトなのだから、その進化が彼を越えられないことは、キュビズムがはじまった時点で確定されていた。セザンヌの絵は写実的ではないけれど、理系世界の構造現象というふうにも、僕はあまり思わない。あえて例えるなら、音楽であり、旋律だと思う。画布のなかに「気」が凝縮している。気が集合して「生」になっている。

『人間が生きているというのは、生命を構成する気が集合しているということである。気が集合すると生になり、離散すると死になる』荘子

集合させるのは画家であり、自然との出逢いだと思う。それほど時間をかけているようには見えないのに、遅筆だったのは、そのせいだと思う。描きかけの絵を、何年もおいてから、ちょっとだけ手を加えたりしていたのだと思う。他の人が見れば、なにがなんだかわからない。だけど本人にとっては、切実な問題で、画家にとっての「気」は、流通している時間や空間を越えているので、その集め方は、本人すらよくわからない類のものだろう。

セザンヌのタッチはとても純粋で、時間をかけて丁寧に正直に描いているのが、肖像画を見るとよくわかる。「集めている」という表現がしっくりくる。その周辺の空気とは、そこに立つ人の存在によって変化する。彼は万物の指揮者だった。気を集めてダンスを踊ってもらうには、極限の集中と曖昧な時間が必要なので、もしセザンヌがこれほどの集中を迷いなく量産できていたら、きっと若い時期に生涯を終えていたと思う。

日本人はどうしてもマンガやアニメの影響を受けてしまうので、五歳くらいを越えて自我が芽生えてくると、どこか絵がつまらなくなる。自分のなかから自然に発するものではなく、記憶にある映像を追ってしまうので、自然ではなくて、記憶の模倣になってしまう。セザンヌは記憶の箱ではなくて、自分のなかから自然を描く。トランプをする人の絵を何枚も描いているのは、その模索だと思う。構図は同じでも、だんだん下手になっているように見えるから、笑いものにされる。ほんとうは真理に近づいていることを、理解してくれる人は多くなかった。


自分のなかからカチリと一致する、外の世界との関係は、ほんとうはおしなべて平等に、誰もが知っていて、感じられる。説明のできないなにかを感じて、カチリ。と、扉が開く。気がついたら音もなく、開いているのかもしれない。その扉から新しい感動があふれてくる。まるで音楽のように。芸術の働きとは、そういうものだと思う。

『自分というものが干渉すると、みんな台無しになる。何故だろう』Paul Cézanne
 
 
 

2014/08/16

小さな声


朝から近雷が鳴り響いている。

数日前、台風明けの鮎喰川で、一人流されたと聞いた。詳しいことは聞いていないけど、憤ると同時に、胸がつかえたような気持ちになった。氾濫した鮎喰川を見ていると、その圧倒的な力に吸いこまれそうになる。足がすべらしたらまず助からないことはわかっていても、タナトスに惹かれてしまう。でも実際に近づいていくと、耳の後ろの方で、小さく声がする。『やめとけ』と。それ以上ちかづくなと。それは内なる声だから、従う。自我が肥大していると、その声が聞こえにくくなるのだと思う。内なる自然に対して耳を澄まして従うことは、臆病ではけしてない。

自然は怖い。畏れこそ本性だと思う。

だからこそ敬虔な気持ちがわいてくる。敬うような気持ちで接していると、見返りを求めない、大いなる母のような、無限の愛情を与えてくれる。見えない手で、あなたは一人ではないと、抱きしめてくれる。自然は正体を見せない。人間なんて眼中にないから、計り知れないところがある。人間がいてもいなくても、自然はいままでもこれからも、存在し続けてくれている。芸術とはこれからも存在し続けてくれる自然への、人類からの置き手紙であり、贈り物だと思う。古来から芸術は自然の模倣である、と言われている。人間が自然の一部だからだと思う。

自然はじねんとも読む。たまたまそうであること。即ち偶然という意味でもあるという。自然とは、人為によってではなく、おのずから存在している。おのずから存在しているものが、なんらかの形をとっている。人間が川と呼んでいるのは、川が存在しているというよりも、存在が川という姿をしているだけなのだと思う。同じように、人間が自然と呼んでいるものとは、自然が存在しているのではなくて、存在そのものを自然と呼んでいるだけの、実体のつかめないイマージュ。言葉が自然を切り離してしまったと嘆くなら、その声で自然を取り戻せばいいのだと思う。

動物界、植物界、自然界は、人間界と繋がっている。そういうふうに総和的に自然を観察していると、自と他の区別が曖昧になってきて、外的現象と内的世界が結びついているような気がしてくる。そういうときにでも聞こえてくる小さな声とは、命(いのち)だと思う。

2014/08/07

星と雨


満天星。天の川から流れ星がこぼれ落ちた。

天の川は私たちの住んでいる銀河なので、内部から属している銀河を見ているのだけど、いくら頭でわかっていても、やっぱり天の川は私の外にある。「私は天の川を見ている」から逃れられない。とても大きな問題だと思ってる。

川の中から川の姿を見ることはできない。すこしだけ顔をあげないと無理だ。銀河は銀河から出なくても、内側から銀河の姿を見ることができる。だけど見ているものに観察者が含まれているという実感は、見たままでは得られない。星と重力の関係だと思う。光(明)と重力(暗)がなければ、銀河を見ることはできない。星と重力に挟まれて、私たちはいる。まるで蟻のように、球体の表面を無限に歩いている。薪割りの他力とは、もろに重力。天から地へと、自然に落ちていく力を、「私」を放棄して、自然の力を最大限に利用させてもらっている。地球の中心に繋ぎとめられているからこそ、私たちは生存できるし、天の川や流れ星を見ることができる。

陽があるうちなら、川の中から外を見ることはできる。ついさっきまでいた世界が、陽光でやわらかく揺れている。ぼんやりとしていて、つかみどころがない。川の中から川の姿を見ることはできないけど、川の中から、いまここではない空間という、ぼんやりとした新しい宇宙を、波にゆられながら、見ることはできる。

水の中では重力から解放される。完全にではないけど、力がほどける。そのほどけた具合は、川の外に見える、ついさっきまでいたはずの世界のあいまいさと、よく似ている。もしも天の川を見るときに、「私」という力を水の中のようにほどけたならば、天の川銀河を自分の内側からぼんやり見つめることも、可能なのだろうか。

天の川からこぼれ落ちた星は、やがて雨になって川に戻ってきた。
                            

雨が続いている。雨音を聞いていると、なんとなく心が安まるのは、雨音が星の調べだからだろうか。星の王子さまではないけど、肝心なことは目に見えない。目に見えない、内宇宙の旋律。

雨は一粒一粒の集合体のはずだけど、速すぎて目で追えない。きれぎれの一本の糸に見える。雨音や、地面にぶつかって、はじめて粒だとわかる。一方で、雨を喜ぶ植物の動きは、遅すぎて目で追えない。人間の目は、その中間あたりの、動物的世界の動きを追えるようにできているのだと思う。降る雨のように頭の回転が速い人もいれば、植物のようにゆったりと答えを出す人もいる。近代社会は前者を圧倒的に賞賛するけど、どちらがいいとは、けして言えない。ゆったり出した答えの方が、うまくいってるということはある。IQの高さなんて、人としての質には関係がない。

ゆったりとした人も、降る雨のような鋭さを持っている。社会に適応できない人の描く絵(アールブリュット)が心の襞に残るのは、それを感じた人の内側で、頭の回転では追いつかない雨(涙)の流線が残るから。それは絶望における慈愛のような、説明のつかない雨と植物の交流なのだと思う。乾いた日に畑の野菜に水をやると、一瞬だけ虹ができるような軌跡。

人間の目は雨粒も植物も目で追えないほど不自由だけど、見えていないものを感じとる自由はある。その自由が、おそらく本当の平和を獲得するのだと思う。

2014/08/06

睡蓮


お線香がなくなったので、焼山寺まで買いに行った。陽射しは強いけど、山の頂上は涼しかった。ふと池を見たら、鯉が睡蓮の葉を日よけに使っていた。かわいい。こういうふうに使うとは思ってもみなかった。睡蓮はなんとなくこういう姿で水に浮かんでいるわけではなくて、鯉たちの日傘であり、お遍路さんの袈裟。水の中で生活をしていない私たちの目は、つい花に注目してしまうのだけど。その丸い日傘の葉は、鯉たちを強い陽射しから守っている。

ふとモネの絵を思い出した。


彼の代表作「散歩、日傘をさす女性」は、彼が愛した妻、カミーユ。

モネは「死の床のカミーユ」を描き、病により死を迎えた妻を、永遠という記憶に残したあと、終の棲家としたジヴェルニーで、後半生を「睡蓮」に捧げる。日傘をさす女の絵は、まるで鯉のように、下から空を見あげるような構図だった。モネは池に浮かぶ、その丸い葉を執拗に描いた。水の中に漂うものに、祈りを捧げるように。水面は生と死の鏡のように、秘密を抱えている。ここから先はあなたが住む世界ではないよとでも言いたげに、青い空や緑を撥ねて、キラキラと輝いている。モネはこの世界に共存する、別の世界を見つめていたのだと思う。見つめているものに、見つめられていた。


 
『人は私の作品について議論し、まるで理解する必要があるかのように理解したふりをする。私の作品はただ愛するだけでよいのに』Claude Monet