2014/08/07

星と雨


満天星。天の川から流れ星がこぼれ落ちた。

天の川は私たちの住んでいる銀河なので、内部から属している銀河を見ているのだけど、いくら頭でわかっていても、やっぱり天の川は私の外にある。「私は天の川を見ている」から逃れられない。とても大きな問題だと思ってる。

川の中から川の姿を見ることはできない。すこしだけ顔をあげないと無理だ。銀河は銀河から出なくても、内側から銀河の姿を見ることができる。だけど見ているものに観察者が含まれているという実感は、見たままでは得られない。星と重力の関係だと思う。光(明)と重力(暗)がなければ、銀河を見ることはできない。星と重力に挟まれて、私たちはいる。まるで蟻のように、球体の表面を無限に歩いている。薪割りの他力とは、もろに重力。天から地へと、自然に落ちていく力を、「私」を放棄して、自然の力を最大限に利用させてもらっている。地球の中心に繋ぎとめられているからこそ、私たちは生存できるし、天の川や流れ星を見ることができる。

陽があるうちなら、川の中から外を見ることはできる。ついさっきまでいた世界が、陽光でやわらかく揺れている。ぼんやりとしていて、つかみどころがない。川の中から川の姿を見ることはできないけど、川の中から、いまここではない空間という、ぼんやりとした新しい宇宙を、波にゆられながら、見ることはできる。

水の中では重力から解放される。完全にではないけど、力がほどける。そのほどけた具合は、川の外に見える、ついさっきまでいたはずの世界のあいまいさと、よく似ている。もしも天の川を見るときに、「私」という力を水の中のようにほどけたならば、天の川銀河を自分の内側からぼんやり見つめることも、可能なのだろうか。

天の川からこぼれ落ちた星は、やがて雨になって川に戻ってきた。
                            

雨が続いている。雨音を聞いていると、なんとなく心が安まるのは、雨音が星の調べだからだろうか。星の王子さまではないけど、肝心なことは目に見えない。目に見えない、内宇宙の旋律。

雨は一粒一粒の集合体のはずだけど、速すぎて目で追えない。きれぎれの一本の糸に見える。雨音や、地面にぶつかって、はじめて粒だとわかる。一方で、雨を喜ぶ植物の動きは、遅すぎて目で追えない。人間の目は、その中間あたりの、動物的世界の動きを追えるようにできているのだと思う。降る雨のように頭の回転が速い人もいれば、植物のようにゆったりと答えを出す人もいる。近代社会は前者を圧倒的に賞賛するけど、どちらがいいとは、けして言えない。ゆったり出した答えの方が、うまくいってるということはある。IQの高さなんて、人としての質には関係がない。

ゆったりとした人も、降る雨のような鋭さを持っている。社会に適応できない人の描く絵(アールブリュット)が心の襞に残るのは、それを感じた人の内側で、頭の回転では追いつかない雨(涙)の流線が残るから。それは絶望における慈愛のような、説明のつかない雨と植物の交流なのだと思う。乾いた日に畑の野菜に水をやると、一瞬だけ虹ができるような軌跡。

人間の目は雨粒も植物も目で追えないほど不自由だけど、見えていないものを感じとる自由はある。その自由が、おそらく本当の平和を獲得するのだと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿