2015/02/27

根崩れして倒れていた巨木を切った。45度の急斜面の、誰からも忘れた薄暗い森のなかで、よくもここまで耐えて生き抜いたものだと感心した。なんの木かはそのときはわからなかった。だからこの巨木に名前はなく、木のような顔をしているなにかだった。消えかけた年輪は150以上はあった。百年を越えている樹に刃を入れていると、なにかがこちらに向かって流れてくる様子がはっきりわかる。ありがとうと言っているように思った。それはこちらの台詞なのに。

巨木との出会いという内なる響を、私の中で言葉(樹の声)に変位させているのは、人間の通常の力では洞察できない、深い魂の働きなのだろうと思う。響そのものは実体がなく、人間というフレームの外から流れてくる。フレームの外を確認することはできないのだけど、音源の実在を世界(フレームの中)に感じとることはできる。

人間の視界(意識)から抜け落ちてしまう風景を、おそらく無意識は拾い集めている。そう思わせる経験が、いくつかある。風景が連続した時の積み重なりだとしたら、不自由な人間の目では追いきれないページがある。その抜け落ちたページで物語全体を語ることはできないけれど、拾い集めた風景を自分の時間で再構築すれば、フレームの外へと誘う力にはなりえるのだろうと思う。メルロポンティがセザンヌの絵を、まるで別の惑星の生命体からの視点のようだ表現している。絵画とはそういうことだと思う。意識には上らない風景を、記憶の向こうから取り出してフレームにおさめている。

まるで読み解かれるのを待っている本のように、風景は連続している。一度読んだらおしまいではなく、すぐに手が届くような場所に置いて、何度も何度も読み返す値打ちがある。

彼の名前は欅(けやき)だった。

刃を入れたときに独特の香りがしていた。後で調べてみて、欅と呼ばれていることがわかった。飾り台にしている丸太に顔を近づけると、つんと香りがする。近づけば香る。離れれば香らない。絶妙な間を置いて、物体の周りに香りが浮遊しているという状態は、人間の気配のようにいかにも不思議で、まるで見えない花が、樹(心)に宿っているような神秘性がある。

じつは巨木に寄り添うように生えていた杉を倒したときに、頭上から大きな枝が落ちてきて、顔面に直撃した。一瞬だけホワイトアウトして、鼻根部(目と目の間)が切れて血が流れて、あれから何日が過ぎたろう。今朝、鏡を見て、やっと消えはじめたその傷を見て、あの寄り添っていた杉のことを、ふと思い出した。あの杉は、欅を花のように思って、嫉妬したのだろう。

森のなかに一人でいたり、山に登ったり、川を見つめていたり。そういうときは一人なのだけど、一人じゃないという気がする。それは既に其処にある自然がそう感じさせるのだと思いこんでいたのだけど、ほんとうはそうではなくて、ある層(ゾーン)に意識が入るからなのかもしれない。大勢の人たちに囲まれていても、ふとした瞬間に、ひとりで森の中にいるような気持ちを抱えてしまう人は、いるだろうと思う。ゾーンに入ると、そういう意識体と空間を越えて繋がる。だから一人でも、一人じゃないという霊感を受けて、その感覚が鏡のようにまわりの風景に影響を与えて、世界の見え方が変わってしまう。

山に登っている人は、山を見つめている人たちと繋がっているだろう。海を見つめている人は、海への憧れや、広い心に繋がるのだろう。雲のように繋がったりちぎれたりする層(ゾーン)の存在は、あらゆるものが繋がったひとつのものという実感を、風景に託してその人に伝えている。

『自然は万物に美しい装いをさせ、生命を吹き込み、これをよしとすることができるのであって、例え個々のものは意識も持たず意味もないメカニズムに支配されているとしか見えなくとも、より深く見透かす目をもってすれば、個々の偶然の重なりや連続に、人間の心と見事に共感するものが見えてくるのです』Novalis

『空の中には何ものも存在しない。しかも、あらゆるものがその中から出て来るものである。それは鏡のようなものである。鏡の中には何ものも存在しない。だからこそあらゆるものを映し出すことが可能なのである』中村元「龍樹」




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