2015/06/19

精霊の森


画家は「その身体を携えている」とヴァレリーが言っている。実際のところ、<精神>が絵を描くなどということは考えようもないことだ。画家はその身体を世界に貸すことによって世界を絵に変える。この化体を理解するためには、働いている現実の身体、つまり空間の一切れであったり機能の束であったりするのではなく、視覚と運動との縒り糸であるような身体を取りもどさなくてはならない。(メルロ=ポンティ「眼と精神」)


精霊の森に行く道はふたつあって、ひとつは川を渡る道、もうひとつは最近発見したトンネル工事現場の抜け道。進めている画布は30号なので、抜け道から運ぶ。しかしまた新たに別の工事が始まってしまって、抜け道さえも通れなくなってしまった。この画布を持って川を渡ることは難しい。しばらくは無理そうだけど、森は記憶のなかにある。

あれだけたくさんの樹があっても、以前描いた画と、同じ樹で同じ構図を選んでいる。自分の意思なのに、不思議に思う。描くというよりも、描かされている。植物は話せない。だからこの森は、自分に託して、なにかを伝えようとしているのだと考えている。どう思うかは、自由なのだから。この名もなき森は山里の死角になっていて、いまは道もない。地元の人にも、旅の人にも辿りつけない。結界がかかっていて、だから神性が宿る。

自然は言語を持っている。その声を聴き取ろうとする意思が、自然の一部である人間を変性意識状態にさせる。この森で精霊や妖怪や神々を感じるのは、樹々から話しかけられているからであり、狂っているわけではない。理屈ではなく、感じさせる深い理由がある。

土砂降りになると工事が中止になるので精霊の森に入れるのだけど、カビが怖いので油絵を持っていくわけにはいかないし、スケッチや水彩をしていても雨に濡れてしまう。だからなにも持たずに森に行って、雨に濡れながらポカンとしていると、自分はなにをしているのだろうなとふと思う。みんな誰かのために、時間をムダにしないで働いていることだろう。自分も仕事をしているつもりだけど、いい大人が雨に濡れて森でポカンとしている状況を、万人に納得いくようには説明はできないし、あまりしたくもない。ああ、あの人は変わり者なのだなあと思われてるくらいが、心地よいのかもしれない。

雨に濡れながら森にいると、ゾーンに繋がる。ゾーンでは自分が自分に観察されている。ほんとうは狂っているのではなくて、狂ってしまわないようにここにいることが本人にはよくわかる。無意味の意味が、やさしい雨に包まれている。


雨が降るといろんな色が見えてくる。

雨粒が弱い光を撥ねていて、厚い雲に閉ざされている陽の光を、月光のように暗示している。空間に透明な青い膜がかかったように見えたり、森に目に見えないハレーションのような虹色の光の粒を感じるのは、そのせいだと思う。青空から降りてきた虹のエレメントが、雨という天の気配を演じている。雨のひと粒は目で追えないほど早く落ちる。だから小さな虹色の光も目に映らない。もしも雨粒のすべてが、ゆっくりゆっくりと落ちてきたとしたら、雨の日の青き世界は、万華鏡のようにキラキラと輝いて見えるだろう。

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