はじめて「無名」に出逢ったのは真夜中の杉の樹だった。ヘッドライトに反射する二つの眼が、杉の樹の上から興奮する二匹の犬を見下ろしていた。名前がわからなかったので「無名」と命名して、そのままそう呼んでいた。毎夜のジョギングで月に一度か二度くらいは「無名」に遭遇した。そんなときはなんとなく嬉しくて、太古の狩猟の記憶が残っているのか、幸運(luck)のようなものを感じることができた。お不動さんのそばだったし、ひきずって道の横によけてくれていたから成仏できたような気はするけど、もう「無名」に逢うことができない寂寥は残った。
うちは山里だけど国道沿いなので、特に連休になるとこういう場面に遭遇することは多い。飛び出したかもしれないので誰かを責めるつもりはないし、心優しい人ぶりたいわけでも、ナイーブ(感傷的)になってるわけでもないけど、信号もなくて気持ちいいのかもしらんけど、動物も避けられないようなスピードで山道を走るなよと自戒を込めて思う。
こういう話をすると狩猟や飛行機(鳥の事故)などの例えをだしたり、中国では犬を食べているとか、もっと深刻な社会問題があるだろうなどと鼻で笑う人がいるが、それは筋違い。世の中で騒がれる問題と個人的な問題は根っこの部分で繋がっている。捕食でも、しかたのない駆除でもない、世界に見放されたようなこういう場面は、誰も救われない。だから声を拾いたくなるし、もう「無名」に逢うことができないという小さいけど確かなリアリティは、万人の知識や常識や数字のごまかしで解決しない。自分事だから。
渋滞学者、西成活裕さんの研究によると、渋滞をなくす方法はじつにシンプル。車間距離を開ける。ゆずりあう。詰めない。ようするに、相手を思いやる気持ちであり、心の余裕。ある意味ありきたりでよく聞く言葉だけど、机上の精神論ではなくて、実験現場から導かれた事実だから重みが違う。渋滞は人間の集団心理が創り出している状態であり、事実、蟻の行列は渋滞しない。
では渋滞とは逆の場面ではどうだろうか。混んでいなければ、「まわりに誰もいない」のだろうか。
気持ちがよくて見晴らしがいいなら、のんびりいけばいいと思う。スピードを追求したいならサーキットを走ればいい。僕自身は法定速度は守ってない?(というか、見てない)けど、自分の感覚で人間や動物もよけられないようなスピードは出さないし、速度超過で捕まったこともない。そんなに急いでまで辿り着きたい場所なんて、どこにもない。落ち着きがなくてせわしない人は、相手の気持ちをくみとる能力が高いのだろう。アンテナが高すぎて、気苦労も多いのだろうと思う。そういう人と無名の寂寥(もののあはれ)を共有できればなあと思う。