2015/09/12

主は来ませり


グレゴリオ聖歌やミサ曲をよく聴くようになった。バッハもそうだけど、自然霊の歌という気がする。身体にすっと入ってきて、邪気を祓ってくれる。古楽になると宗教の違いをあまり感じさせない。こういう音楽が高野山で流れていても、違和感はないと思う。

クリスチャンではないけれど、保育園がキリスト教だったので、懐かしい感じがする。毎日歌った賛美歌をよく覚えている。キリストのこともシュワキマセリという意味もわからなかったけど、あの保育園にはいい思い出が詰まっている。なにかに見守られているような気配を、いつも感じていたのだと思う。

なんだかよくわからなくても、身守ってくれているような気配が場にあると、安心する。カミサマでも仏様でも親でも友達でも樹でも花でもいいのだと思う。人に言えないようなことや、つらいことがあっても、そういう存在に見守られていれば、やっていける。
 
保育園で宗教を学んだ記憶はない。でもシュワキマセリという念仏や、賛美歌のメロディや、祭壇の十字架や、ノアの箱舟のような遊具はよく覚えている。よく覚えているのはそういうもので、調べれば書いてあるような万人の理屈ではなかった。小中高は我慢ばかりで、あまりいい思い出がない。あったかもしれないけど、どの思い出もなんとなく寂しい。そういうものかもしれないけど、見守られているような気配を感じさせるなにかが場にあったら、少しは違ったのかもしれない。学校なんて古くさいものははやくなくなって、寺子屋とかになればいいのに。

お寺の鐘がポーンと鳴ったり、からすが夕焼けに向かって飛んだり、桜が咲いたり、大きな樹の根っこが怖かったり、蟻の行列を観察したり、カエルが古池に飛びこんだり。そんなことだけで"もののあはれ"を感じられるのは、身体のなかに宇宙をあるからだと思う。その宇宙をお天道様が見守っている。

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