『お前は無限を押し戻すことさえ できて、無限はお前の生長によっ て作られているに過ぎない。地下 の墓から梢の鳥の巣に至るまで、 お前はすべての「認識」を自分に 感じることができる』
ポール・ヴ ァレリー「蛇の素描」より
瀧壺 は飛沫が激しくて、岩場にイーゼ ルを立てることもできないけど、 やや引いた遠景なら、なんとか草 むらに立てることができる。人が 登って来ない短い時間しか描かな いけれど、瀧は強烈なので、肌で 感じてさえいれば、印象をそのま ま持ち帰ることができる。印象を 持ち帰ることができるのは、無意 識が空間を距離ではなく、意識体 と捉えているからだと思う。
人間は人間のフレームでしか物事 が見えないので、なにかを表現し ようとすると、たちまちフレーム の中に閉じこめられてしまう。そ れは宇宙に果てを求めてしまう感 情に、よく似ている。人間は観測 できない(見えない)から、なに もない、とは考えない。空間と意 識が繋がっているからだと思う。
瀧への細い山道で、二日連続で蛇 に出逢った。一匹目はツチノコの ような、二匹目はマムシだった。 いずれも道をふさぐように寝てい て、マムシはなかなか通してくれ なかった。瀧は龍の門、道は蛇の 轍、きっとなにかの徴(しるし) だろうと思う。
平日はほとんど人が来ない山だけ ど、まれに登山者と出逢うことが ある。瀧で出逢ったことはないけ ど、そろそろ帰ろうかなと思って 、山道を降りはじめてすぐに、登 山者とすれ違う。あれは不思議な タイミングで、たぶん無意識が、 人が登ってくる気配を察するのだ と思う。頭ではそんなことができ るわけないと思うことを、無意識 はやってのける。無意識にとって 空間は意識体だから、時間や距離 は関係ない。
高い岩場に囲まれている瀧壺には 、直接光が入らないと思いこんで いたけど、陽の高い午後のある特 別な時間にだけ、奇跡的に木漏れ 陽が射しこむことを発見した。瀧 壺を泳ぐ光は、産まれたての星の ように、乱反射する宇宙の夜のな かで、キラキラと輝いている。た った一度だけ、虹を見たことがあ る。何度通っても、その一度きり。あれは天の影だろう。
もののあはれを知ると、頭で考え られるようなことって、たいした ことないのだろうなと思ってしま う。感覚の束のような身体が捉え る無意識の絆が、まるで流星のよ うに、宇宙の夜を一瞬だけ金色に 輝かせる。
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