2016/06/01

龍の門

『お前は無限を押し戻すことさえできて、無限はお前の生長によって作られているに過ぎない。地下の墓から梢の鳥の巣に至るまで、お前はすべての「認識」を自分に感じることができる』
ポール・ヴァレリー「蛇の素描」より


瀧壺は飛沫が激しくて、岩場にイーゼルを立てることもできないけど、やや引いた遠景なら、なんとか草むらに立てることができる。人が登って来ない短い時間しか描かないけれど、瀧は強烈なので、肌で感じてさえいれば、印象をそのまま持ち帰ることができる。印象を持ち帰ることができるのは、無意識が空間を距離ではなく、意識体と捉えているからだと思う。

人間は人間のフレームでしか物事が見えないので、なにかを表現しようとすると、たちまちフレームの中に閉じこめられてしまう。それは宇宙に果てを求めてしまう感情に、よく似ている。人間は観測できない(見えない)から、なにもない、とは考えない。空間と意識が繋がっているからだと思う。

瀧への細い山道で、二日連続で蛇に出逢った。一匹目はツチノコのような、二匹目はマムシだった。いずれも道をふさぐように寝ていて、マムシはなかなか通してくれなかった。瀧は龍の門、道は蛇の轍、きっとなにかの徴(しるし)だろうと思う。

平日はほとんど人が来ない山だけど、まれに登山者と出逢うことがある。瀧で出逢ったことはないけど、そろそろ帰ろうかなと思って、山道を降りはじめてすぐに、登山者とすれ違う。あれは不思議なタイミングで、たぶん無意識が、人が登ってくる気配を察するのだと思う。頭ではそんなことができるわけないと思うことを、無意識はやってのける。無意識にとって空間は意識体だから、時間や距離は関係ない。

高い岩場に囲まれている瀧壺には、直接光が入らないと思いこんでいたけど、陽の高い午後のある特別な時間にだけ、奇跡的に木漏れ陽が射しこむことを発見した。瀧壺を泳ぐ光は、産まれたての星のように、乱反射する宇宙の夜のなかで、キラキラと輝いている。たった一度だけ、虹を見たことがある。何度通っても、その一度きり。あれは天の影だろう。

もののあはれを知ると、頭で考えられるようなことって、たいしたことないのだろうなと思ってしまう。感覚の束のような身体が捉える無意識の絆が、まるで流星のように、宇宙の夜を一瞬だけ金色に輝かせる。



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