2020/07/19

精霊の島


旅の手帖(奄美大島編)

奄美着、宿の目の前にある海岸を歩いていたら、アダンの木の下に小さな龍のような頭蓋骨が。宿の人たちに聞いても、初めて見た、わからないという。これはきっと島からの贈り物。初日から吉兆に迎えられた。

 
 
杉や檜が自生しない奄美の自然は、それだけで屋久島とはずいぶん違う印象。手付かずの山には近寄り難い雰囲気があり、湿気と暑さに朦朧としていて、気を抜くと魔界に持っていかれそうな気配もある。「なにかがいる」と、皮膚が伝えている。

 
 


 

 
ガジュマルって、実物は頭の中の像(イマージュ)より少しだけ小さい。でも近づいてじっと見つめていると、そのイマージュに実物の方が近づいてきて、内側からみるみる存在が育って、内と外がひっくり返るように大きくなってくる。この反転のリアリティがガジュマルの魅力。精霊が宿ると言われているのも、きっとそのせいだろう。
 
 
龍郷町で見つけたガジュマル(下の画像)。車の流れが早く、みな見逃してしまうような国道沿いの建築会社の駐車場にポツンとあるが、霊気が高く、龍神さんが宿った立派な神木。この土地の所有者は、この木を切ったらバチが当たると感覚的にわかったのだろうな。土地は本来誰のものでもなく、自然のもの。



ガジュマルは「絡まる」の他、『風を守る』⇒『かぜまもる』⇒『ガジュマル』となったという説がある。樹木は理由もなく生えているわけではなく、その土地の風を守っている。



街を普通に歩いているだけで、精霊の木に出会えるという贅沢。人間の手で描かれた景観が、自然によって緩やかに、予測不能な力で侵食されていく姿はとても美しい。彼らはただありのままに、自分だけの物語を生きている。




この浜の石は、うちの前の河原の石にそっくりだなぁと思って見つめていたら、普段は聞こえているだけの波の音が、ダイレクトに身体の中に入ってきて、海と強く繋がったような気がした。きっとこの青い空と海の間に、砂浜を歩く自分がいるのだ。それがわかった瞬間に、海がそうだよと、答えてくれたように感じた。
 
さりげなく書くしかないけど、それは海より山が好きな自分にとって大きな出来事だった。中学生のころ、川と海の境界のような場所で泳いでいたら、海の方にどんどん流された。いくら泳いでも、友人のボートから離れていく。泳ぎは下手ではないけど、なにか足首をつかまれて引っ張られているような、死に引きずり込むような恐ろしい力に抗えなかった。幸い流されているのに気づいてもらえたが、あのまま気づかれなかったら、もう二度とこの世界に戻れなかったのでないかと思うと、心底怖くなる。それから海に入るのをやめた。
 
 
その海が、まるで別人のように、とても優しかった。身体に入ってきた波は、古い記憶を洗い流して、大海は絹のように柔らかく、命を包み込んでくれた。
 
 
 
田中一村 終焉の家。僕の奄美のイマージュは、田中一村さんの最晩年の作品群。だから実物よりも奥行きのあるイマージュに向かって、全ての風景は吸い込まれてくる。
 
 
初日から完全に近いアダンの風景を見たのはそのせい。一村さんはモニュメントと化した終焉の家にはいないけど、精霊の名の元に、奄美の自然の中に、神として宿っている
 

人が自然になる。こういう例は他にないんじゃないかな。魂が自然の中に浸透して完璧に昇華しているので、呼びかけても返事はなく、目も合わせてくれない。でも島の主なので、観光ガイドに乗ってないような野生から、本人にだけわかるようなサインを送ってくる。

ここには日を変えて二度通った。一度目は「観光客」たちで場が乱れていて、気持ちを整えることが出来なかったが、二度目は一人で静かに見ることができた。今思うと、呼ばれていたように思う。家の壁に穴が開いていることに気づいて、じっと家の中を見つめていたら、変な気持ちになった。すこし迷ったけど、怖くはなかったのでお伺いを立ててから中を撮ってみたら、現場では見えなかったけど、光の玉(霊)が映っていた。


数年前、最晩年の原画を見て全身の毛がいきなり逆立った。高揚したり、吐きそうになったり、血の気が上がったり下がったりしたことはあったけど、絵を見て体がこんなふうに感応したのははじめてだった。この話が信用できるところは、それまで自分は、さほど田中一村の作品に興味を持っていなかったところだ。好き嫌いを超えたところで、細胞が騒いでいるなら、小さな個人を超えた、無意識的ななにかが作用しているのだろう。個人的な感情より、霊的なセンサーの方が信頼できる。それは神気と呼んだ方がいいのかもしれない。

人の身体には生命維持装置が備わっていて、情報よりも先に、生命がなにかを予感していて、理由がよくわからなくても、なんか嫌だな、と思わせて、迫りくる危険を回避させようとする。それは天災にも機能する。心あたりのある人は少なくないだろう。よく似てるのが「畏れ」だけど、畏れは自然から与えられるワクチンのようなもので、入れ過ぎると「あたる」けど、生命の危機に対する抵抗力を作り、むしろ魂を守ってくれる。魂を歪めようとする力と、正そうとする力、この違いがわからないくらいになると、自分を見失っている。

自分を見失うと、人間は催眠術にかけられたような状態になる。そして容易く洗脳され、出口を見失う。眠っている人を起こすには、違う世界(時空)からの、適度な刺激が必要になる。そして目覚めていたいなら、自分をゆさぶり続けてくれる存在に、魂が触れていなければならない。

 
写真や言葉の方が広く情報を伝えやすいけれど、絵画には狭くても深く伝わっていくパイプがある。特に原画には、その人の人生まで変えてしまうような潜在力がある。それは密教に近いのかもしれない。写真を見ると、表面は絵より美しい。でもなぜ自分は写真家ではなく、画家であろうとするのか。自然はそれだけで美しいのに、なぜ手で追い求めて、描くのか。それはたぶん、絵でしか伝えられないことがあるから。
 
 
奄美大島を出る最終日、予定よりも早く空港に着いてしまって、なんとなく歩いていたら見つけた美しい場所。散歩道にはなっているが、入り口はとてもわかりにくく、ガイドには載っていないし、車に乗っていてはけしてたどり着けない。語りかけてくる風景は、こういうほとんどの人が見逃してしまうような名もない場所にある。島の主が結界を解いて、最後に案内してくれたのだと思う。


 
 

奄美はいろんな種類の蝶がいたけど、警戒心が強いのか、すぐに逃げてしまう。唯一逃げなかったのが、この青い蝶。また来てね、と言いに来てくれたのだろうな。また来るよ。




喜界島編に続く。

 
 

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