2022/08/25

龍の夢



不思議な夢を見た。光る球体に先導されながら、山々を恐るべき速さで飛んでいる。龍に化身したのか、身体が蛇のように細長く感じる。凄まじい快感を伴って、長いトンネルを抜けていく。トンネルの中から『その呪力を人を幸せにするために使いなさい』という声が聞こえて目が覚めた。

翌日、用事で山を下りてたんだけど、街から山の方に光る雲が見えた。しばらくしたら四つに分かれて消えた。(これほんとに雲か?)という変な動き。京都の鞍馬寺でも、こういう雲を見たことがある。

それから山に戻る途中で激しい天気雨。雨が止んだら、空には巨大な龍王雲が。撮るときは崩れかけてるけど、もっと綺麗に炎をふきあげるような形をしていた。とにかく巨大で圧倒された。この方角には、龍神さんが棲む神社がある。

以前ここから見えた雲は、そのときよりはひと回り小さい。犬神さんかと思ってたけど、龍神さんだったんだな。なに子どもみたいなこと言ってんだと、笑われるのかもしれない。でも人はみな、見えない存在に守られている。


思い返すと、易紙による映色作品は年初から雪による龍で始まっている。映色をしているとよくわかるんだけど、今年は例年とは違う激しい光の炎のような模様が現れていて、地脈、水脈が蠢いているのを感じていた。地震や火山の噴火が多いのもそのせいだろう。

神即自然を出版した後に、ライオンズゲートというのを教えてもらった。地球上にエネルギーが降り注ぐ時期らしく、そのパワーが最大化するのが8月8日頃だったらしい。出版時期と一致する。じつはこの本は一か月以上前に完成していた。でもなぜか今じゃない気がして寝かしていたのは、ゲートが開くのを、無意識が待っていたからだろう。でもライオンではなくて、ドラゴンズゲートという気がする。干支は虎だけど、今年はずっと龍を感じている。


数日前に自分へのご褒美に迎えたアガベのケルチョベイ。変な名前だなとは思ったけど、元気がよさそうで即決した小さな群生株。後で調べたら、和名が紫雲竜だとわかった。紫雲の竜ってまさにそのときに描いてた絵。紫雲とは阿弥陀仏が来迎するときに乗るめでたい雲らしい。無意識の力には、いつも後から驚かされる。



寝る前にもう一度と願ってはいるが、あれから一度も龍の夢を見ていない。

凄まじい快感と、夢とは思えないようなリアリティ。あれはなんだったんだろうと、思い返すことがある。そしてトンネルの中から聞こえたあの言葉。自分自身の声なのか、それともなにか波動の高い意識体からのメッセージなのか。それは誰にもわからない。

でもふと空を見上げると彼らがいて、ずっと見守られているような気がしている。








2022/08/06

神即自然

ある日、樹の中から顔が現れた。浮かんできたというより、樹の中から生えてきた。それは今までにない新しい感覚だった。

瘤(こぶ)のようにどんどん浮かんできた顔は、やがて樹の全体を覆いつくし、それらは詩人の樹、哲学の樹、覚者の樹と呼ばれるようになった。




龍も現れた。最初はトカゲだったが、やがて数が増え、龍に化身して、樹の中を縦横無尽に駆け回った。その中央から一匹の龍が現れたと思うと、白い影だけを残して天に消えた。


なんだこれは…?という誰とも共有できないような不思議な感覚を引きずっていた。

その頃からだったと思う。ゼウス、モーセ、天使、マリアさま…。普段から慣れ親しんでいる自然の中から、神さまが現れたのは。



最初はギリシア時代の古い神の姿が多かったが、紅葉が始まったり、梅や桜が咲くころに、東洋、日本の神さまや幻獣が現れはじめた。きっと彼らは、四季の移ろいに親和性があるのだろう。




人の姿をした神様なんていないと思っているのに、人の姿をした神様を描いていると気が安らぐのはなぜだろうか。

それはたぶん、神様が自分の中にいるから。よく言われることだけど、知識ではなく、現場で感じて、描いてみると実感としてよくわかる。それはいつも外からではなく、内側から現れる。

神即自然→自然即我→我即宇宙→宇宙即神

そうして円環を描きながら、わたしたちは輪廻(ダンス)している。

前世の記憶や生まれ変わりとは、過去から未来に向かう時間の矢に基づいて限定された、人間世界の魂のコードのこと。だからニーチェは神は死んだと言い放ち、永劫回帰を語り、超人思想を示した。

神の名を借りて、霊感で他人の人生を支配しようとする指導者や集団が必ず腐敗するのは、その思想の根源に宇宙や自然への同調、動物や植物への愛が足りないから。

時間の矢を見渡す視座から見れば、私たちの前世は星であり、緑であり、虫であり、この一瞬に輝く全て。それを思い出すだけで、魂は永遠の一瞬に満たされるはず。神即自然。わたしたちは自然の一部であり、内側から自然(神)の姿を眺めている。

そうして4冊目のartbook「神即自然」が完成した。装丁は大好きな青空のようなスカイブルー、その金銀振雲竜和紙の結界の中には、神々の光が輝いていた。臨場感があるので、見てるだけで元気になれた。



お釈迦さまは日輪を描いて、よくここまで来たなと微笑んでくれた。自分が納得すればそれでよいという気持ちで、100%好きなように、無意識に導かれるようにして作った、小さなこの沈黙の束を、他人が見て触れて、どう思うのかはわからない。ただ自惚れではなく、自分にしか生み出せないものだなという自負はあった。

自分にしか生み出せないものは、自分の力だけでは生み出せない。この美しい矛盾に関わっているのが創造の神々。オリジナリティとは、自分だけは特別な存在だという相対的な世界ではなく、誰とも比較できない、誰にも奪われない絶対的な世界に起因する。つまり全ての人にオリジナリティがある。

だから他人と比べたり、自分を信じることを諦めてはいけない。





2022/06/08

森と海

昨夜は川の前に蛍の大群が。思考は奪われ、ただぼぉーっと明滅に見惚れてしまった。蛍はなぜ、なんとも言えないような、人をこんな気持ちにさせるのだろうか。

ドローイングブックを読み終えてしばらく、少し酔ったように頭がぼぉーっとしたという感想を頂いて、おもしろいなと思った。ぼぉーっとしてしまうのは脳が休んでいるわけではなく、むしろ無意識の領域が活発に働いている証拠で、閃きや霊感が降りてくるのもこの瞬間にあるという。

森羅も海羅も中身は作品のみ、一切言葉の説明がない本なので、こんな無愛想で小さな絵本を手にしてくれた人のためにも、すこし言語化してみたいと思う。

森羅/海羅はずいぶん前に出来ていたドローイングブックだったが、背中を押される感覚がなかったのでそのままにして、森と海を繋ぐのは雨なので、梅雨が来るまで寝かしていた。そして6/4の夜、思い出したように蛍が突然たくさん現れて背中を押したので出品した(蛍は梅雨入りのサイン)。

低気圧が近づいてくるこの時期に、ドローイングだけに集中したこの本のコード(暗号)を読みこめる人がいたら、きっと頭がぼぉーっとするだろうなと思う。言語化が苦手な人ほどそうなる。作者ですらそうなのだから、よくわかる。

基本的に自分は樹木や深い森に執着してしまうタイプで、森羅もそこから始まって、何処に行くのか自分でもわからないまま本を作り始めた。気がつくと樹神ガジュマルに導かれていて、ちょっとこれ以上行くとヤバいなという領域まで踏み込んでしまう。だからこそ写真と絵を組み合わせたり、差し紙を入れるという形にして、息つぎが出来るように工夫していた。

そうして森を進んでいると、ふっと予測不能になって、自分でも意外な場所に出た。長い洞窟から抜けたような、本人をワクワクさせてくれる至福の瞬間だった。

一番意外だったのは、海に繋がったことだった。

自分は山や森が好きなタイプの人間で、溺れて死にかけたこともあるせいか、海が怖い。そして女性的な甘いモチーフも描くのが苦手。海、蝶、花というモチーフは無意識の壁があって自分の内側からは湧いてこないから、連れて行ってもらえないと辿り着けない。屋久島や奄美にいた精霊は、虫や動物の身体を借りて、自分の力では辿り着けないような場所にまで、魂を案内してくれた。本を作って一番良かったなと思うのは、この部分だ。

綺麗な蝶を追いかけている子どものように、好きなものを追いかけているうちに指南されて、視野が広がっていく。真剣な遊びが、ライフワークである絵画やプリント作品にまで波紋を広げてくれる。なにより本人が一番驚いたりワクワクして楽しんで作っている。こういう喜びが他の人にも伝わればいいなと思う。

ドローイングだけだとまとまりがなかったので、最後に時系列を壊して未発表を含めた動物たちの絵が来るようにレイアウトを変えた。するとなぜだか本がまとまって、すっと椅子から立ち上がるように自立してくれた。違和感をごまかさずに試行錯誤しているうちに、こちらの肩の力が抜けて、ふっと向こうから作品が立ち上がる。モノづくりをしている人ならこの感覚はわかると思う。


屋久島も奄美(喜界島)も、ここぞという大事な場面で大雨になって、世界の見え方を変えてくれた。森と海を繋ぐ雨、その円環を表す形として、外函と本表紙(外と内)に同じ絵を使って、外には晴れた日の山犬獄の森を、内側には雨に滲んだ山犬獄(森の霊)を選んで敬意を表した。

梅雨というと、じめじめする。カビが生える。洗濯物が乾かないなどと、とかく人には嫌われがちだけど、雨が降ると山は喜ぶ。植物たちは歓喜の手を伸ばし、晴れた日よりも、雨の日の方が森の精霊は饒舌になる。このことを知る人は、空が暗くても明るく輝き、自分を見失わない。外側のリズムよりも、本来の自分の内側にある自然のリズムに合わせて動いていた方が、長い目で見ると物事がうまくいくことを知っている。

成果を求めずに、勇気をもって求め続け、失敗を恐れずに、まっすぐに好きなことを追いかける。結局そんな単純なことが、自分のエネルギーを整えてくれるのだ。

森と海を合わせた小さな絵本は、そんなふうにして出来た。

最後の最後に入ってきた海辺の犬や猫たちは、なにか大切なことを人間に伝えようとしていた。彼らは人に捨てられても人を恨まず、どんな状況の中でも未来に向かって生きていく強い目をしていた。彼らは私であり、私は彼らでもあった。

白い犬は優しくて遠い目で海を見つめていた。




2022/06/06

butterfly effect Ⅱ

5月22日、ちょっと絵の制作が煮詰まっていたので、アドバイスを受けに大樹に逢いに行った。その樹はある神社の御神木で、今まで何度も描いている仲の良い大樹だった。境内の外からその大樹の横を通り過ぎたとき、一匹の黒いアゲハが茂みに羽ばたいていたのを覚えている。


それから神社の鳥居をくぐり、手を合わせてお賽銭を入れたあと、大祓詞を奏上していたら、視界の中を(たぶん)先ほど見た黒い蝶が飛んでいるのに気づいた。祝詞を止めるわけにはいかないのでそのまま読み続けていたら、祝詞が終わるまでずっと身体の周りをぐるぐる回りながら飛んでいて、鳥肌が立った。

時間の感覚はないけど、祝詞の前半で気がついていたので、一分くらいは回っていたと思う(※ 後日、蝶に気づいたあたりからストップウォッチで正確に測ってみたら、読み終えるのに2分21秒かかっていた)。終わるとふっといなくなって、不思議な気持ちに包まれた。

今までにも不思議なことはたくさんあったが、いつもどこかですごく冷めた自分がいて、そいつが『ただの偶然だよね』とか『それってあなたがそう思いたいだけだよね』とか『自分が見たい方向に、あらゆる現実を再構築して、物語を紡いでいるだけだよね』とか言って、いい意味で客観的に不思議な出来事を俯瞰してくれていて、過剰な思い込みや妄信を排除してくれるのだけど、今回はその冷めた自分も消し飛ぶようなレベルだった。

犬や猫なら、まあ、顔を覚えていたのかもしれないなあとか、餌をくれそうだと思っているんだろうなあ、とか、いろいろと考えることができる。でも一匹の蝶である。巣を守ろうとする蜂のように、蝶が人を追いかける理由はないだろうし、いつもならただ本能で、危険を感じて逃げるだけ。それがわざわざかなりの距離を追いかけてきて、あんなに長く身体の周りを飛び続けていたなんて。

きっと信じてもらえないだろうけど、自分でも信じられないような不思議なことって、ほんとうにある。

それからしばらく大樹と沈黙を語り合ってから、そろそろ帰ろうとしたとき、なぜだか『もうすこしここにいてくれ』という力を空間に感じて、境内(結界)から出られなかった。催眠術にかかったように身体が動かない。

たぶん蝶は自分で動いていたわけではなく、空間を支配していたこの力(大いなる意志)によって動かされていたのだろう。

その日の夜から描いたのは、今までとはまるで違う雰囲気の絵だった。


よほどその日の体験が心の中を占めていたのだろう。でもそれだけではないと思う。たぶん自分は描くことを通して、自分が信じている世界を伝えたいのだ

作者は器であって、表現しているのは信じているその世界。自分を表現することよりも、大いなる自然がなにを表現しようとしているのか。その探求の方が楽しい。

「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。この化体を理解するためには、働いている現実の身体、つまり空間の一切れであったり、機能の束であったりするのではなく、視覚と運動との織り糸であるような身体を取り戻さなくてはならない」
メルロ=ポンティ


 

2022/05/07

芸術の本質

「芸術のことはよくわからないけど‥」と前置きされることがよくあるんだけど、神道にコミットしていたり、動物や植物、つまり自然界や霊界に太いパイプ(回路)を持っている人は、芸術のことも潜在的によくわかっている。神さまと話せる人は、芸術の話もできる。これは根っこが同じだから。

神さまを信じていないと絵は描けないと言ったセザンヌに対して、メルロ=ポンティは彼の絵はなにか人間ではないような存在(視座)から描かれているようだと評論している。このへんの奥行きが芸術の本質なのだけど、そこまで踏み込めずに、表面的なことだけに惑わされる人は多い。

たとえば虫の目から見た世界をネットで検索すると、こういう花の画像が出る。


ほとんどの人は左の花にまぁ綺麗!と反応するのではないかと思う。でも左は人間の視点から花を捉えて美に変換、つまり脚色された花で、たぶん虫はこんなふうに花を見てない。どちらかというと、右の花の静寂の方が本質に近い。

ネットニュースなんかで、たまに本物と区別がつかないように空き缶やお菓子の袋なんかを描く人がいて話題になったりするけど、そこまで技術がある人が芸術家として大成しないのは、他者に見られる世界に閉じこめられていて、本質にコミットできていないから。

プロの添削で素人の絵がどう変化するかという動画をたまたま見てしまったけど、添削される前の絵の方が、下手でも一生懸命さが伝わってきて、いい絵だった。なんでこんな比較をするのだろうと見ててつらくなる。これがプロの絵描きなら、自分はプロにはなりたくない。

人間の視点から描かれている絵とは、わざとヘタに描くという意味も含めて、技術が高くて上手な絵。でもそれは予定調和の上の方にいるというだけの話で、突き抜けないかぎり、本質的な創造性とは関係がない。絵が上手いピカソが絵が下手なセザンヌやルソーに嫉妬していたのはこの本質で、ここを理解している人がものすごく少ないのは、人間ではない存在から描かれた(ように見える)ものが、人知を超えている(ように見える)から。

人間はなにも知らない。ブナの森からそう言われたことがある。だからこそ求め続けることができるのだろう。芸術とは、その求めに答えようとする魂の救済であり、光。自分の人生を、その光と共に生きている人こそ、芸術のことを表面ではなく、本質的に理解している。


2022/03/03

新しい世界

新しい世界っていうのは、いきなり目の前に宇宙の扉が現れて、そこを開けるとガラッと世界が変わるようなものではなくて、目に見えないような小さな扉を、孤独に、ひとつひとつ手作業で、壊れないように丁寧に開けているうちに、いつのまにか世界の見え方(認識)が変わっていたということ。

自分の場合は表現行為、その作品が道標になっているけど、ほんとうはすべての人が芸術家だと思う。たとえ絵を描いたり、演奏したりしていなくても、なにげない日常の中で、内面世界に出会い、神々に触れ、芸術体験をして、小さな新しい扉を、ひとつひとつ開いている。

才能豊かで世渡りが上手い人よりも、私にはなにもなくて、世界から必要とされていないと孤独を感じる人ほど、その扉を開ける力は強い。そういう人を、宇宙は抱きしめて離さない。この抱擁や息吹が、少しでも伝わればと思う。作品がその手がかりやきっかけになればと思う。

……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である…… 農民芸術概論綱要 宮沢賢治






2022/01/29

イマジネーションの世界

冬至を過ぎたあたりから、止まっていた絵が動きだした。宇宙の根っこがゆっくりと螺旋状に動き出して、その力に背中を押されるような不思議。受動なのに能動で、自分ではどうにもならないことなのに、自由を感じている。


絵を描いていると、視界に映るこの手は誰?と思うことがある。いわゆる離人症なのだけど、現実に希薄感はなく、むしろ未知の力に満たされていて、IDは失っているけど、主体性は今ここにある。このときたぶん、意識は身体を離れて、イマジネーションの世界にいる。

芸術とは、そのイマジネーションの世界からイマージュを預かり、現実に降ろして、二つの世界の均衡を取り、結びつける秘儀。魂が心の底からある目的を実現しようとするとき、その魂を導く霊的な働きがある。「人が本当に何かを望むとき、全宇宙が協力して、夢を実現するのを助けるのだ」。

私たちが日常体験している現実と、その背後に隠されている、眼には見えない高次の世界。この二つの世界の接点に、美がある。ミクロコスモス(小宇宙)である人間と、マクロコスモス(大宇宙)である大自然は、意識の深いところで結びついて、イマジネーションを描いている。