この話を聞いたあと、制作途中の油絵を見ていて、はっと気づかされたことがあった。この絵は崩れ落ちそうな巨木の根本にできた小さな洞窟に向かって、一匹のうなだれた鹿が歩いている背中が中心になっている構図だ。なぜこの構図に惹かれているのかよくわからないまま描き進め、描く前から「暗示」というタイトルをつけていた。題名が先に降りてきたので気になっていたのだけど、その謎が今回の鹿骨のおかげですっかり解けた。これは菩提樹を見つけた仏陀のように、渡世を彷徨ったあげくにやっと死に場所を見つけて、まさにそこで骨を埋めんと最後の力を振り絞る老鹿の背中だったのだ。とにかくその洞窟にさえ辿り着きさえすれば、悟りと永遠の安らぎを得て、死をもって大きく世界のシフトが変わりそうな予感がある。そういう此岸と彼岸の裂け目、まるで女性器のような天の岩戸を感じさせる半開きの時空のシンボルとして、多くの取材写真の中からこの構図を潜在意識が選びとり、水辺で風化しようとしていた鹿の骨が手がかりになって、顕在意識にまで押し上げられたのだ。
表現とは人間が生きるために最低限必要なことではない、という事実を、忘れないようにしている。百姓や漁師の方がはるかに尊いと思っている。未曾有の天災と放射能という人災は、ジャックナイフのような鋭さでその事実を、あらゆる角度から、表現に関わる人たちの喉元に突きつけたはず。それでもなお、意味などないはずの表現に理由をつけるとしたら、その人が、その人なりに、希なる望みを託し、それなしには生きていけないから、生きていたいから、死にたくないから、続けているのだろうと思う。僕はそうだ。それなのに老鹿の背は死を誘い、涅槃を暗示している。描かれたものには、ちっぽけな自分の意志など、まるで反映していない。そういうつじつまの合わない矛盾を見つめたときに、人知を超えた無限なる英知の介在を感じてしまう。
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