2011/07/13

矛盾

真夏のような強い陽射しの午後、川で身体を冷やしていたら、鹿の角を見つけた。角とはいっても、頭頂部の骨がついているので、頭蓋骨だ。周囲からは絶対に見えない、川辺の窪んだ小さな谷のような場所にあり、ずっしりと重かった。角以外はなにもなく、おそらくは一ヶ月ほど前の悪魔のような濁流によって他の部位は流され、重い角のついた頭頂部だけが流されずに此処に留まったのだと思う。地元の人に見せたら、生え替わりに落とす角だけならよくあるのだが、鹿の骨は珍しいとのこと。また鹿は死に場所に水場を選ぶ習性があるという貴重な話を聞くことができた。食べられるくらいなら、流骨になった方がいいという本能なのかもしれない。あらゆる野生動物は年をとって身を守る力がなくなると、敵から見つかりにくい場所を探し、そこで身を隠して静かに死を待つという。

この話を聞いたあと、制作途中の油絵を見ていて、はっと気づかされたことがあった。この絵は崩れ落ちそうな巨木の根本にできた小さな洞窟に向かって、一匹のうなだれた鹿が歩いている背中が中心になっている構図だ。なぜこの構図に惹かれているのかよくわからないまま描き進め、描く前から「暗示」というタイトルをつけていた。題名が先に降りてきたので気になっていたのだけど、その謎が今回の鹿骨のおかげですっかり解けた。これは菩提樹を見つけた仏陀のように、渡世を彷徨ったあげくにやっと死に場所を見つけて、まさにそこで骨を埋めんと最後の力を振り絞る老鹿の背中だったのだ。とにかくその洞窟にさえ辿り着きさえすれば、悟りと永遠の安らぎを得て、死をもって大きく世界のシフトが変わりそうな予感がある。そういう此岸と彼岸の裂け目、まるで女性器のような天の岩戸を感じさせる半開きの時空のシンボルとして、多くの取材写真の中からこの構図を潜在意識が選びとり、水辺で風化しようとしていた鹿の骨が手がかりになって、顕在意識にまで押し上げられたのだ。

表現とは人間が生きるために最低限必要なことではない、という事実を、忘れないようにしている。百姓や漁師の方がはるかに尊いと思っている。未曾有の天災と放射能という人災は、ジャックナイフのような鋭さでその事実を、あらゆる角度から、表現に関わる人たちの喉元に突きつけたはず。それでもなお、意味などないはずの表現に理由をつけるとしたら、その人が、その人なりに、希なる望みを託し、それなしには生きていけないから、生きていたいから、死にたくないから、続けているのだろうと思う。僕はそうだ。それなのに老鹿の背は死を誘い、涅槃を暗示している。描かれたものには、ちっぽけな自分の意志など、まるで反映していない。そういうつじつまの合わない矛盾を見つめたときに、人知を超えた無限なる英知の介在を感じてしまう。




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