ディスカバリーチャンネルの「即身仏の科学」という番組を見た。衝撃的だった。想像を絶する苦行を通して、生きながらにして、どのように死んでいくか。その様子を科学的な視点から追っていた。最終段階では湯殿山から涌き出る温泉(ヒ素)を飲み、躯を内側から殺菌していくという徹底ぶり。この科学的な即身仏マニュアルを伝えたのが、空海だった。
五穀断ち、十穀断ちといって水分のある穀物を避け、木の実や樹皮だけを食し、山を走って、体力を整えながら瞑想に入る。計十数年も準備をかけて躯を殺していくというのは、あらゆる求道的な狂気のなかでも、究極の姿ではないだろうか。過酷な登山や、極限に挑むレーサーには、覚悟はあっても、あきらかに「死ぬとわかっている」という猛進とは似ていて、違うような気がする。こういう極限状態の暮らしの中では、俗人とはまったく異なる脳の回路を使うのだろう。ここに強い興味が沸いてきた。臨死体験のようなオカルト的な興味ではなく、その向かい方というか、姿勢の中に訪れる感覚はいったいどんなものなのだろうかと。
五穀断ち、十穀断ちといって水分のある穀物を避け、木の実や樹皮だけを食し、山を走って、体力を整えながら瞑想に入る。計十数年も準備をかけて躯を殺していくというのは、あらゆる求道的な狂気のなかでも、究極の姿ではないだろうか。過酷な登山や、極限に挑むレーサーには、覚悟はあっても、あきらかに「死ぬとわかっている」という猛進とは似ていて、違うような気がする。こういう極限状態の暮らしの中では、俗人とはまったく異なる脳の回路を使うのだろう。ここに強い興味が沸いてきた。臨死体験のようなオカルト的な興味ではなく、その向かい方というか、姿勢の中に訪れる感覚はいったいどんなものなのだろうかと。
死に近づいていく僧は、なにを思い、なに感じているのだろうか。たとえば木の実を口にしたとき、一般に言う、「食べる」とは違う感覚であると取材を受けた僧は答えていた。朝陽が昇るのを見て、いったいなにを思うのか。うまく想像ができない。これは生に執着しているからなのか。しかし、執着なくして、どうやって生きていくのか。おそらく小鳥が木の実を食べる感覚に、僧の精神状態は近いのだろうという仮説が浮かぶ。小鳥には自分がない。目の前にある事物に対して、快、不快という二者択一の選択だけで生きている(と僕は思う)。だから自分がある人間は、自分がない小鳥を見て、心が安らぐ。実際に僧を見たら、そのように心が安らぐのだろう。
番組を見たあと、もの足りなかった部分を自分で調べた。そして即身仏と即身成仏があることも知った。空海は一方で即身成仏義(生きながら仏となる)を確立し、一方で即身仏(仏になるために死ぬ)のマニュアルを密かに伝えている。言葉で伝えられることと、伝えられないことを知っていて、お互いがそれを補う関係を作っている。ここに密教のすごみがあり、空海のただならなさを感じてしまう。
今朝、薪を取りに入った森の中で、上記のことを反芻し、僧の感覚を探していた。小鳥が激しく鳴いていた。彼らと同じように、赤い木の実を口にしたが、苦くて、とても飲み込めるものではなかった。「違う感覚」とは、いったいどこからやって来るのだろうか。
番組を見たあと、もの足りなかった部分を自分で調べた。そして即身仏と即身成仏があることも知った。空海は一方で即身成仏義(生きながら仏となる)を確立し、一方で即身仏(仏になるために死ぬ)のマニュアルを密かに伝えている。言葉で伝えられることと、伝えられないことを知っていて、お互いがそれを補う関係を作っている。ここに密教のすごみがあり、空海のただならなさを感じてしまう。
今朝、薪を取りに入った森の中で、上記のことを反芻し、僧の感覚を探していた。小鳥が激しく鳴いていた。彼らと同じように、赤い木の実を口にしたが、苦くて、とても飲み込めるものではなかった。「違う感覚」とは、いったいどこからやって来るのだろうか。
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