今に始まったことではないけれど、2010年からのシンクロニシティの頻発は、自分の中におさまりきらない気配があり、自分の中から溢れ出ようとするものがあった。これは絵を描きたいという、小さい頃から抑えられなかった衝動にとてもよく似ている。わけがわからないけど、有り余るものがあり、その力に自分が逆らえない。小学生のころ、テストの答案用意の裏に落書きしたときの快楽を思い出す。落書きについては先生によって対応が違った。許してくれそうにない担任のときには描いた後、消した。許されなくとも、描かずにはいられなかった。許してくれる担任もいたけど、おもしろがってくれる先生はいなかった。あのころ僕はもしかしたら、答案用紙の裏に絵を描きたいからこそ、やっつけ仕事で勉強していたのかもしれない。なぜこんなことを思い出したのか自分でもよくわからないが、こうなるともう、深く考えていったん外に出し、昇華するしかない。あのころのように。
二十代のときに周辺に起こったシンクロニシティのことについて考えているうちに、精神世界に溺れてしまったことがあって以来、科学の外側に対してはあまり深入りしないようにしてきた。そのころはテレパシーという感じで捕らえていたと思う。波長が合ったときだけ、情報や出来事が時空を超えて通じ合う、というような。しかし最近のシンクロニシティに関して思うことは、二十代のときとは決定的になにかが違う。
あらためて気づいたのは、シンクロは原因と結果が逆になっていたことだった。この原因と結果という言葉は、正確ではないのかもしれない。しかし今はこの言葉しか思いつかないので、使うことにする。シンクロは先に結果があってから、原因(と呼べるようなもの)が起こっている。いわゆる予知であり、予見である。誰が受信して、誰が発信したとか、そういうことはややこしくなるので考えないことにした。現象だけを見つめて、なにかしら答えを導きだしたいので。
たとえば一週間前から予定を立てて、生まれてはじめてドジョウを取りに行ったその日に、野田総理の、いわゆるドジョウ発言が飛び出した。通用されている力学なら、ドジョウというキーワードを耳にしたから(原因)、ドジョウを捕りに行ってみよう(結果)、という可能性の流れになる。また別の日にはバイクで知らない山道を走っていたら、偶然に壮大な菜の花畑に出会して感動した。すると翌日になって家人と知りあいから、近くに菜の花畑があるから行ってみなさいと連絡があった。これも通用されている因果関係、行ってみなさいと促されたから(原因)、行ってみる(結果)、いう流れに逆らっている。最近では森で赤い実を食べたあと、友人に食べたら死ぬ赤い実のことを教えられ、食中毒の危険を指摘された。その日の夜、近くの小学校でニラとスイセンを間違えた食中毒事件が起きていたことがわかった。大事には至らなかったが、全国ニュースに出てくるような扱いだった。これも事実が逆転していたなら、筋が通る話である。
今年一番印象に残っているのは、台風の翌日、家の前を流れている鮎喰川が信じられないくらい(2mくらい)増水したときのことだ。その日の鮎喰は、いつもの穏やかなエメラルドグリーンの姿とは一変して、荒れ狂い、灰色(モノトーン)の濁流となってなぎ倒した木々や葉を乗せて流れていく恐ろしくも、美しい姿に豹変していた。僕はその姿に311の洪水の情景を映していた。毎日見ている同じ川なのに、こんなにも見え方が違うものかと、近づけるぎりぎりの川辺に立ち、放心していた。そしてビショビショになって家に戻ったら、雑誌が届いていた。それは風の旅人という雑誌の空即是色という号で、告知していた発売日より少し早かった。そしてその雑誌の表紙が、たったいま見たばかりの濁流とほとんど同じ構図で同じ印象、色までそっくりの白黒写真だったのである。現物を受け取ったときの実際の現象としては、ほぼ同時と言ってもいいのだけど、表紙を決めるのは相当前のはずである。本来なら表紙にインスパイアされたから(原因)、同じような構図を無意識が求める(結果)はず。今回は台風まで予見していることによって森羅万象を巻き込んで、ダイナミックに因果関係が反転している。震災前にこの表紙を選んでいたとしたなら、311も予見していたことになる。だから記憶への残り方が普通じゃなく、忘れられないものになっている。告知している発売日より少し前(たしか一日前)でなければ、この絶妙なタイミングは生まれなかった。この細部にもまた、ただならなさを感じてしまう。
小さなものを含めると、まだまだ書ききれないことが起きている。このような度重なるシンクロが教えてくれたことは、因果関係の反転だった。シンクロには、通用されている感覚ではありえないと思える力学が介在しているということ。これは大げさな飛躍ではなく、アインシュタインが撤回した宇宙項Λの存在証明、反重力への兆しそのものではないかと直観している。勉強不足なので断言はしない。でも止まっている電車が動いているように見えたり、熱中している時間は短く感じたり、誰しもが頭と躯(からだ)で体験して納得できる出来事だからこそ、科学は説得力を帯びて世に浸透する。常識を覆すような数式はにわかには信じがたく、検証されてからあとから、あれはそういうことだったのかとハッとするものであり、そういう意味の直観を感じているのだ。
さらに311以後の世の中の動きと照らし合わせてみる。すると大きな発見があった。結果から始めようとする因果関係の逆転行為とは、今まさに少数の人が試みている、自分を捨てて、原因(心)を未来に送ろうとする行動と合致しているのだ。結果のために、という行動原則によって、近代というバベルの塔ができたのなら、原因(心)のために、結果から始まる、という、見返りを求めない、脳の新しい部位を使った行動原則とは、精神世界にだけ通用されている言葉だけが一人歩きしたものではなく、リアルな、本物の、社会の仕組みを換えてしまうパラダイムシフトに成り得るんじゃないだろうか。そんな大いなる可能性を、シンクロニシティ(共時性)は与えてくれた。
この気づきから導かれた情報(仮説)は、僕自身の小さな頭の中におさまるものではない。だからその負荷に耐えきれなくなり、こんなふうに言葉にして、ささやかながら第三者が見れる状態にしている。そういう意味で、僕自身のなにか特殊な能力による現象の考察ではまったくなく、波長が合うもの同士だけが密に交わせる特別なものでもなく、もちろんオカルトでもなんでもない。誰の前にでも当たり前に起こっている現象なのだけど、近代という壁が邪魔をして、その兆しを受け入れることができていないだけなのだ。
さらにマクロな視点でも共時性というものを全体的に俯瞰してみる。そこでもやはり因果関係の逆転がある。一連の共時性が、抜き打ちテストのようなもの。そう考えると(反転した)筋も通る。共時性から導かれる答えが、はじめからずっと目の前にあり(結果、または解答)、その答えを導くまでの数式を、自分ではない誰か(先生のような存在?)から求められていると感じていたからこそ、自分のキャパシティーを超える現象について考えざるを得なくなり、回答者として自分が、たった今、手を挙げてしまった(原因、または問題提起)。もちろん答えは間違っているかもしれないが、合っているかどうかは問題ではなく、過程を考察することにテストの意味がある。そんなふうに考えると、頭がすっきりする。言い換えるなら、もやもやしていたものが昇華され、外に出て行くのである。
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文章を書くときに、自分が書いている気があまりしないことがある。書かされているというほど受動的ではないけど、能動的にもかかわらず、自分が書いたものに発見が多いという矛盾した状態にある。絵を描くことにも同じことが言える。理解不能なモチーフだけど、大きな確信があり、その確信を文字通り、確かなものにして、信じたいからからこそ、時間をかけて描いているという気がする。それは導かれているような、わけのわからない呼び声を信じて、応じているということでもあり、わけがわからないものなのに、人生を賭けて、信じているという矛盾した状態でもある。シンクロも通用感覚では理解不能かもしれない。しかし理解不能だからこそ、共時性の海に満たされる。その海に潜って、確信したいものがある。海底には、静かに眠る財宝があるかもしれないし、見たことのない新種の生物がいるのかもしれないし、もしかしたら、パラレルワールドが広がっている地下帝国の入り口があるのかもしれない。海面にはすでに飛び込んでいる人たちが見える。なぜか呼吸をしているので、人間ではなく、私たちそのものの影ではないかと疑っている。それでも飛び込むのは怖いという人が大勢いる。しかし後ろ手に山火事による野火が迫り、もはや逃げ道がない悟ったとしたら、誰しもその海に飛ぶこむしかないのだ。
風の旅人 43号 空即是色
http://www.kazetabi.com/bn/43.html
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