オリオン座の左上にベテルギウスという星がある。640光年離れたこの星は、来年2012年に爆発して消滅するという。なじみ深いこの形も、やがて誰も元の形を思い出せなくなるのだろう。星が消滅する瞬間に立ち会えるとは、なんという今生の幸運かと思う。感慨深いものがある反面、今生はこのままかもしれないという思いもある。正直言うと、どちらでもいい。自分を見つめるきっかけにさえなれば、それでいい。
山登りは景色と自分が同化していく感じがあるけど、ジョギングにはまったくそれがなくて、むしろ景色と自分がどんどん乖離していく。リズムが心臓の鼓動に似ているせいではないだろうか。とにかく僕はこの乖離していったときに訪れる、奇妙な反転のような覚醒を求めて走っているのだと気づいた。今夜も走れる、と思うとワクワクしてくる。星のおかげで、義務感が期待に変わっていたのだ。大空の星は自分の小ささ、人間の放漫を際だたせる。しかし同時に、まるで夜空を全部手に入れたような、大きな世界も自分の中に感じていた。人間は大きいのか、小さいのか。小栗康平監督の「眠る男」に出てくる、あの忘れられない言葉を反芻した。大気に揺らぐベテルギウスが、なぜだか泣いているように思えた。
山登りは景色と自分が同化していく感じがあるけど、ジョギングにはまったくそれがなくて、むしろ景色と自分がどんどん乖離していく。リズムが心臓の鼓動に似ているせいではないだろうか。とにかく僕はこの乖離していったときに訪れる、奇妙な反転のような覚醒を求めて走っているのだと気づいた。今夜も走れる、と思うとワクワクしてくる。星のおかげで、義務感が期待に変わっていたのだ。大空の星は自分の小ささ、人間の放漫を際だたせる。しかし同時に、まるで夜空を全部手に入れたような、大きな世界も自分の中に感じていた。人間は大きいのか、小さいのか。小栗康平監督の「眠る男」に出てくる、あの忘れられない言葉を反芻した。大気に揺らぐベテルギウスが、なぜだか泣いているように思えた。
大きな世界と小さな自分、大きな自分と小さな世界。そんな立場の入れ替えを走りながら楽しんでいると、通常の空間では実感できないはずの平行宇宙(パラレルワールド)を感じている自分に気づいた。目に見える世界や事物に重なって、もうひとつの世界が堂々と同時に進行しているような確信があった。生き生きとした世界が、実感として目の前に重なっていた。あまりにも直感的なので、このことについては、これ以上語れそうにない。しかしながら神秘体験という曖昧さではなく、自分が吹き飛んでしまうようなリアリティがあった。
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昨晩、道中のもっとも暗いゆるやかなカーブで、山影に落ちていく光を見た。その光は赤と青が重なったような光を放って消滅した。幻覚だろうけど、そのとき夜空にジュッと煙が舞いあがったように見えた。おそらく隕石が大気圏で燃え尽きたのだろうと思う。気の遠くなるほど長い旅の終点に、あの隕石はこの地球を選んでくれた。私たちが住むこの惑星が、あの隕石にとってのvanishing point(消失点)だった。
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