発注していた画材が届いた。新しい絵具がそばにあるだけで、失った躰の一部を取り戻したみたいに、ほっとする。2012年は年始から鉛筆と油彩を組み合わせて、白黒絵画に挑戦した。画布と鉛筆は相性が悪いので、自分で木製パネルを作って、木の上に描いた。鉛筆は固いので木目の肌との相性がいい。色のない絵は、光と影だけ。つまり、陰影そのものを描いているので、存在に向かい合っているような真摯な気持ちになれる。白地であれば、一番強い光の場所は、描きたくても、なにも描けない。ぐぐっとこらえて、その部分を見つめるだけしかできない。このこらえ(空白)に弓を引くような力があって、思想を呼びこめるような気がする。それにしても、影を描くことで、同時に光が引き出されているのだから、モノクロームは奥が深い。アウトサイダーアートとは、すこし違うベクトルで、書画、墨絵のような陰影には、目に見えることだけに振り回されたりしない、熟した大人の遊びがあると思う。墨絵などは、自分で筆を入れたところが、即、影になるのだから、作者そのものの予感が、もろに紙のうえに現れてしまう。だからこれほどの真剣勝負はないのかもしれない。予感が強くないと、砕けてしまう。予知が強くないと、ふやけてしまう。武士道というのか、そのような血脈が走るのだと思う。鉛筆画にも、そういう緊張感はたしかにある。 そのような境地に、憧れだけが降りつのる。
宮本武蔵の五輪書、水之巻に「観見二眼」という言葉が出てくる。観は心で見て、見は眼で見ること。観の目をつよく、見の目をよわく、遠き所を近くに、近き所を遠くに見て、敵の太刀を知り、少しも敵の太刀を見ないという兵法の大事(真髄)、これを工夫してみなさいと、武蔵は説いている。今はもう、刀で斬り合う時代ではないけれど、武蔵の言葉は、響く。
宮本武蔵の五輪書、水之巻に「観見二眼」という言葉が出てくる。観は心で見て、見は眼で見ること。観の目をつよく、見の目をよわく、遠き所を近くに、近き所を遠くに見て、敵の太刀を知り、少しも敵の太刀を見ないという兵法の大事(真髄)、これを工夫してみなさいと、武蔵は説いている。今はもう、刀で斬り合う時代ではないけれど、武蔵の言葉は、響く。
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